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「おじさんの哲学」 永江朗


「おじさんの哲学」という題名から、中年男性についての哲学的論考かと思ったら違っていた。権威的「父親」ではなく、慌て者の「兄貴」でもない相談しやすい身近にいる「叔父さん」という意味のおじさんで、そのような立場の評論家や小説家を紹介している。ちょっとひねった若者向け読書案内という感じだ。多分、本書を実際に手に取るのは「おじさん」「おばさん」だと思うが。

本書で紹介されている「叔父さん」はだいたい知っている人たちだった。本書の帯には内田樹から鶴見俊輔とあるように、ご隠居さんも含まれている。おじさんになれなかった吉本隆明の章が個人的には一番面白かった。著者も述べているようになぜ全共闘世代に吉本隆明信者が多いのはなぜか?という疑問がその下の世代の正直な感想だと思う。管理人も有名な「共同幻想論」「言語にとって美とは何か」「心的現象論序説」などを読んでもなぜ評価が高いのかさっぱりわからなかった。雑誌「試行」に掲載される罵詈雑言はとても読めるものではなかった。「山口昌男というチンピラ文化人類学者がいる。フィールドワークの蓄積もなければ、理論的な訓練もない。あるのは、この男のかく文章の表題だけのカッコよさと、ジャーナリズムに悪乗りする才能と、欧米文献の猿真似の敏感さだけである。へどがでる」と言った吉本隆明が女性誌のモデルとなってヘラヘラ笑っている写真の掲載を見たら、それこそ「へどがでる」のではないか。著者は「吉本というのはコピーの名手、レトリックの名手なんだ」と述べている。

でも、こういう、いうまでもないことを大げさにいってみせる身振りが、当時の若者に受けたのでしょう。「反論する」を「粉砕する自由と権利を獲得した」などと。しかしそれは、実質的には意味のない、ただの気分だったのではないか。
吉本隆明という人は、永遠の兄貴だったのだと思います。教祖(父親)になることは拒絶した。叔父さんになるには、まじめすぎるというか、抱え込んだものがあまりにも大きかった。

本書のあとがきで、叔父さん的要素あるひとの名前が列挙されている。管理人が知っているのは3人だけだった。ネット時代になり、吉本隆明的罵詈雑言への許容度が低くなった。だれでも匿名で批判できるようになり、小さなミスもネットで調べて見逃さない。重箱の隅をつっつくようなやり取りで、blogやtwitterが炎上というはよくあること。大雑把で、面の皮が厚い叔父さんは絶滅危惧種なのか。

ツラの皮が厚く大雑把なことをいうのって、それなりの使命感みたいなものが必要なのだろうと思います。叔父さんも自己主張したくていろんなことをいうわけじゃなくて、やっぱり甥や姪が心配だからアドバイスするわけですよ。心配だしかわいいし、見るに見かねて。でも、いちいち「ソースを出せ」だの「エビデンス示せ」だのといったり、批判しただけで全否定できたみたいなこといわれると、げんなりする。「めんどくせえ」と。めんどくさいことにかかわるぐらいなら、甥や姪は勝手に苦しんで滅びればいいとも。
内田樹や鷲田清一にあるのは、教師としての使命感ですね。教師というより「師」かな。そういう存在なんだから、嫌われようと馬鹿にされようと批判されようと、とにかくいわなきゃいけねいという。叔父さんはボランティアみたいなものです。もうソースやエビデンスはいいので、ぼくはおもしろい叔父さんのアドバイスというかぼやきが聞きたい。