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「荒凡夫 一茶」 金子兜太


管理人は俳句集をまともに読んだことはないが、俳人の評伝は読むことが多い。「荒凡夫」という言葉が気になり、本書を読んでみた。小林一茶が60歳になったとき、次のように句の添え書きを書いた。

御仏は暁の星の光に、四十九年の非をさとり給ふとかや。荒凡夫のおのれのごとき、五十九年が間、闇きよりくらきに迷ひて、はるかに照らす月影さへたのむ程の力なく、たまたま非を改めんとすれば、暗々然として盲の書を読み、あしなへの踊らんとするにひとしく、ますます迷ひに迷ひをかさねぬ。げにげに諺にいふとほり、愚につける薬もあらざれば、なほ行末も愚にして、愚のかはらぬ世を経ることをねがふのみ。

著者はこの「荒凡夫」の「荒」を荒々しいという意味ではなく「自由」という意味で受け止め、「荒凡夫」を自由で平凡な男と言い換えている。芭蕉ではなく一茶を好み、正岡子規や山頭火に魅力を感じるのは、自由人に憧れ、自らも自由人でありたいと思ったからと著者は述べている。

このエントリーは、飯館村のドキュメンタリー番組を見ながら書いていたのだけれども、30年位前に反原発を唱えたら相当白い目で見られたが、今なら反原発(脱原発)という立場はそんなにおかしくはない。著者は本書の中で、総体として人間と社会は流動的だと述べている。そのように考える理由のひとつに、「運」がある。「運」とは、暗黙のうちに決められた人間の一生というものがあり、その流れのなかで決まってしまうもの。そのように感じるのは著者が「運」というものを信頼しているからだ。

本書では、「生きもの感覚」という言葉がよく使われている。人間には原郷というおおもとのふるさとがあり、本能にはこの原郷を指向する動きがある。原郷の世界は宗教としての「アニミムズ」の世界である。「生きもの感覚」とは、この本能の指向性から生ずる感覚であり、「アニミムズ」を生む人間の生な感覚である。

人間の自由ということは、非常に素朴に本能のままに生きることだと思います。ただ、それだけでは社会を作り上げた人間の、「社会のなかでの生き方」が成立しなくなります。だからそこで「どうやって自由を抑制するか」という問題が出てくるのです。その抑制を人為的に行うか、法律で行うか、あるいは道徳律で行うかなど、考えられる方法はいくつかあると思うのです。心で行う抑制の形が、“生きもの感覚”をいたわっていくことになります。これが本当の意味で、自由を質的に獲得し維持する道である、と私は思うようになりました。
「荒凡夫」の「荒」が指す自由というのはたいへんな問題で、人間にとってはいちばん大事な問題だと思います。その基本はやはり本能、命の触角である本能を自由にすることだ。しかしそれだけでは社会を生きていけないので、何かによってコントロールする必要がある、そのとき“生きもの感覚”という基本の心の世界を見つめることが大切になってくる。それが一茶を通して考えてきたことです。

著者の金子兜太さんは今年93歳。正岡子規についてもっと調べてみたいとあとがきにあり、表現というものにたいして管理人なんかはまだまだ努力が足りないというか、情熱が足りないというか頭が下がる思いがした。