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「兵士の報酬」 野呂邦暢


本書は早世した野呂邦暢の随筆コレクションの1巻目。2段組で500頁を超え、価格も税別で6800円という最近の文芸本としては破格な感じがする。第2巻もすでに出版されている。野呂邦暢小説集成も出版されており、根強いファンがいるのだと思われる。

管理人が野呂邦暢という作家を知ったのは、みすず書房「大人の本棚」の「夕暮れの緑の光」を読んでからだった。野呂邦暢の随筆をもっと読みたいと思って、本を探したが絶版で入手困難だった。同じみすず書房から「野呂邦暢随筆コレクション」が刊行されるのを知って楽しみにしていた。平易な文章で、日常を綴る随筆は読むものを惹きつける。これは紛れもなく、エッセイではなく随筆だと感じさせる。随筆はそれこそ絶滅危惧種状態のようだ。近頃では、軽いエッセイが多く、文章を書く芸を魅せるものが少なくなっているような気がする。

著者は長崎生まれで、疎開のため諫早に移り住んだ。この偶然で、長崎で被爆することを免れた。しかし、長崎で同級生だった友人はあらかた亡くなったり、行方不明で連絡を取れなくなってしまった。記憶の中の同級生はいつまでも子供のままで著者だけが大人になっていく。著者は原爆が落とされた日について次のように述べている。

八月九日は雲ひとつない上天気だった。わたしは友達と公園へ蝉とりに出かけた。その途中、空にまばゆい光がひらめいた。白い光の球に見えたが太陽ではなかった。それは別の空に輝いていた。しばらくして鈍い爆発音が伝わって来た。午後になると諫早には灰の雨が降った。布きれや紙屑の黒っぽい燃え粕が長崎の方から風に乗ってあとからあとから降り続いた。
太陽は立ちのぼる煙にさえぎられて光を喪い黄色い真鍮の円板にすぎなくなった。
夕闇はいつもより数時間はやくおりて来た。長崎上空は赤く染まった。血を流したような夕焼けである。いつまでも消えなかった。夜に入っても西の方、長崎の空は不吉な赤に映えた。わたし達は声もなく立ちつくして炎の色に見入った。浦上界隈の遊び仲間や銭座小学校で一年間、机を並べた級友が火に追われる姿を想像した。戦後二十八年間、わたしは今もって当時の友人と一人も再会していない。消息も聞いたことがない。あの日、子供心に考えていたのは世界の終わりである。そう、まさしく一つの帝国が壮大な人工の夕焼けの下で滅んでいたのだ。夕刻、長崎で傷ついた人々が諫早へ続々と運ばれて来た。駅前広場は被災者で埋められた。横たえられたなり息を引きとる人も多かった。ほとんどの人が裸体で火傷の痕が赤黒かった。冷たくなった母親の乳房にとりすがって泣いていた赤ん坊もいた。

著者は諫早湾について数多く書いており、「諫早の自然を守る会」の代表も引き受けている。諫早湾干拓事業により、干潟からムツゴロウはいなくなり、水鳥たちも姿を消し、のり養殖を行う漁業者はいなくなる。県は県外の漁業者にも補償金を出そうとした。30数年前諫早湾には海と干潟を語る無限の言葉があったが、現在はただ法律用語(間接強制請求異議、間接強制執行停止、開門差し止め訴訟、開門差し止め仮処分、開門差し止め間接強制異議提出etc.)があるばかりと解説の池内紀さんは書いている。このような状況を著者が生きていたらどう考えるだろうか。

海を荒廃させたのは県である。海を殺したのは県である。何を証拠にと問われるならば県がこの海の生産力を高め、維持するのに、戦後三十年間いくら金をつかったかを調べればいい。海は赤ん坊のように傷つきやすい。海のちからを一定に保つには母親が赤ん坊を守り育てる愛情と注意深さが必要だ。
ところで私の家は諫早の漁協のま向いにある。となり近所はほとんどのり養殖にたずさわる家である。いいかえれば、予定通り着工していたら数千万円の補償金をうけとることになっていた人々が住んでいる町である。
私ひとりが、そして”諫早の自然を守る会”だけが、他県の漁民に埋めたての甚しい悪影響を説いて反対させたわけでもないのだが、ことに多額の金がからむと細かい事情は目に入らない。
私はゆううつである。
家を一歩そとへ出れば領民たちと顔をあわせる。パチンコ店の客とちがって、どやされることはないにしても、向うの気持を思うとつい伏し目がちになる。漁民たちは皆まじめな生活者である。私に対して何事もないように挨拶してくれる。だからなおさらつらい。海はつぶしたくない。諫早湾を埋めたてることは有明海の死につながる。かといって私は諫早の漁民たちにも、しかるべき額の補償金を早く手にしてもらいたいのである。埋めたてなければ支払われない金なのだが、すでに諫早の海は死んだも同然なのだ。なんとかならないかと思うのだが、私のゆううつは当分、消えそうにない。