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「須賀敦子の方へ」 松山巌


松山巌さんの著作は決して多くはない。それにもかかわらず、様々な賞を受賞している。松山巌さんの専門が何かは管理人はよく分からない。学歴からいうと建築家のような気がするけれども、著作は小説や文学に関する評論が多い。本書もイタリア文学者・エッセイストの須賀敦子さんの評伝で、管理人にとっては意外な取り合わせの感じがした。本書を読んで松山さんが須賀さんと交流があったことを知った。また須賀敦子さんの晩年の作品はエッセイと言うよりも、むしろ私小説にちかいものだったことを本書で初めて知った。小説とエッセイとの境界上にある作品だとは須賀敦子さんの本を読んでいるときは気がつかなかった。

須賀敦子さんが「ミラノ霧の風景」を刊行した時、すでに60歳を越えていた。管理人が須賀敦子という名を知ったのも「ミラノ霧の風景」であった。本書は晩年の著作を引用しながら、須賀敦子さんの友人や親族へのインタビューを交え、須賀敦子さんの人生を辿っていく。本書が辿るのは須賀敦子さんがフランス留学に出発するまで。若い頃の須賀さんと晩年の須賀さんとが複雑に交錯しながら須賀敦子像が浮かび上がる構成になっている。

霧はおぼろに立ちのぼる記憶である。しかも人々の振舞も風景も影絵のように見せ、叫びを押し殺し、騒音をざわめきに変え、ひそやかな呟きさえも耳の奥に届かせはじめる。微かな音や匂いにも気づかせる。須賀は自らの感情を霧のなかに封じ込め、自分の見聞きし、触れたものすべてを影絵のように描く。熱い思いも、悲鳴も、悲しみも、淋しさも、苦闘も、喜びさえも霧にベールに包み込み、やがて消えてゆく儚さも承知の上で、感情に溺れずに文章は綴らなくてはならないとナタリア・ギンズブルグの文体から学んだのだ。学んだことはそれだけではない。ナタリアの「ある家族の会話」は須賀が語るように、女たちの饒舌な会話に満ちている。彼女が学んだのは、このお喋りを文中に隠し味としていれることだ。

須賀さんがフランス語やイタリア語をどのように学んだのかは本書を読んでもよくわからなかった。語学ができるひとは複数の言語を習得するのはそんなに難しいことではないのだろう。数学者のピーター・フランクルさんは10ヶ国語以上使えるらしいが。須賀敦子さんは算数が苦手だったと本書にあった。

須賀さんは小さいころから本好きだった。「遠い朝の本たち」は1991年8月から「国語通信」で連載が始まり、2年目の年末に一旦連載が終わる。1993年3月から「ちくま」で再度連載が始まり、1994年3月に終了する。結局単行本は生前に刊行されなかった。「遠い朝の本たち」は子どもの頃から、大学院までの期間に限られた読書について書かれている。一冊の本は読書したときの日記であり、過去からの手紙でもあると著者は述べている。

本はじつに多くの記憶を蘇らせ、その記憶がさらに多くの記憶を連れてくる。少女は変わろうとしていた。行き先の見えぬなかで、やがて朝が訪れることを教えてくれた本たちを記憶に蘇らせれば、果たして少女の自分が求めた朝は訪れたのか。戦後の日本に朝は訪れたのか。高木や修道女たちの志を自分は受け継いだか。いまも、現代は「遠い朝」のままではないのか。自分は相変わらず「夜の街を、息せききって走りまわっている」だけではないか。いや、歳月は冷酷だが、長い時間は救いももたらす。五十年経って、自分を目覚めさせてくれた朝の本たちは、もっと明るく描くべきではないか。
老いを感じた須賀にとり、「遠い朝の本たち」には考えれば考えるほど終わりがなかったのではないだろうか。

「じぶんのあたまで、余裕をもってものを考えることの大切さ」は本書で何度も引用されている須賀さんの言葉。この言葉を忘れないようにしようと思う。