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「幻視のなかの政治」 埴谷雄高


アルジェリアで起きた人質事件で思い出したのが学生のころ読んだ「幻視のなかの政治」だった。この事件をきっかけにもう一度本書を読み直した。本書の収められている文章は昭和30年代前半に書かれたもので、批判の対象になっているのは主にソ連・共産党。「やつは敵である。敵を殺せ」というとき、やつはイスラム教武装勢力、あるいはアルジェリア政府、あるいはフランス、あるいはアルカイダ、あるいはユダヤ人、あるいはパレスチナ、あるいはイラク、あるいはアメリカ、あるいは党内の反対勢力etcとなる。

戦争と革命の世紀と言われる20世紀は大量殺戮の時代でもあった。第一次世界大戦は人類史上最も多くの人間が戦争で死に、非戦闘員の大量死の始まりでもあった。その後も、ナチによるユダヤ人の殲滅、スターリンによる大粛清、ドレスデンの無差別空爆、広島・長崎の原爆投下と大量死は続く。敵のすべてが殺せなくとも、それでも殺したく、また、殺されねばならないという政治の策謀の出発点から、実際の死にせよ実質的な死にしろ敵を殺すため、より効果ある武器が求められと共に、より効果的な姿勢と方法が案出されなければならなかった。

ヒットラーは大衆を「性質も物の考え方も極めて女性的であって、冷静な理性よりも感情に動かれ易い。しかもその感情は極めて単純である。彼等の感情には殆ど陰影がなく、ただ対立があるのみである」と見なしていた。そして指導者は「ただ一種の敵のみがおしつけられなければならぬ。そして万人の憎悪が、この一つだけの敵に集中されてなければならぬ」し「自己の宣伝において、たとえいかに僅少な部分であれ、相手の正義を認めたが最後、そのことは自分自身の立場に関して疑惑させる種を播くことになる」とヒットラーは自身のテーゼを展開する。この「憎悪の哲学」は階級秩序の維持、大衆蔑視、理論軽視によって打ち立てられる。

事物の認識と縁なき人間の抹殺はファシズムの指導原理であるただひとつの感情の高揚<<憎悪の哲学>>を必要とするだけであって、そのなかにひとたび住めば、何人も絶えざる虚無へ向かう血まみれの行動と無理論のなかで、事物を<<変革>>すべき主体の革命性を失うこと必然である。嘗ては人を殺すことが讃えらるべき勇者の業であったが、いまそれは無理論と無能の証明になった。何故なら、たとえ不可能と見えるほど困難にせよ、医師にとってすべての患者がやがて癒やされるべき相手であるごとく、私達にとっては内側と外側の古い制度にひきずられている誰もが、やがてともに歩むべき味方なはずだからである。敵は制度、味方はすべての人間、そして、認識力は味方のなかの味方、これが絶えざる死の顔の影に隠れて私達のあいだに、長く見つけられなかった今日の標語である。

以前、自爆テロを実行しているイスラム教武装勢力を取材したドキュメンタリー番組を見たことがあった。その組織の実行にあたる兵士は、子供の頃に誘拐されて組織により訓練・教育されたものであった。非ムスリムに対する自爆テロはジハードであり、ジハードによる死は天国への路であるということだった。その組織の幹部は自爆テロを実行することがないらしい。その放送で何を話しているかわからないアラビア語に混じって、聞き慣れたことばが聞こえた。そこのひとたちが「カミカゼ、カミカゼ」と言っていたのだった。自爆テロのことを「カミカゼ」というのかどうかわからないがとても嫌な感じがした。