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「ひとの現象学」 鷲田清一


本書は、「webちくま」で「可逆的?」というタイトルで連載した文章を中心にして、<ひと>の誕生から死に至る諸相・過程について考察している。webの掲載は2006年6月から始まり、著者の勤務状況が変わったため2007年未完のまま休載したとあとがきにある。管理人が面白く思ったのは6章の<個>と最終章の<死>だった。

<ひと>として生まれたからには、必ず死が訪れる。しかしながら自分の死を経験することはできない。幽霊とか霊魂が存在するとなると話は別だが通常死は自分の経験の彼方にある。経験されるのは他人の死だけである。親しいひとが死んだとき、残されたひとの悲しみは大きい。なぜ他者を喪うといこうとが痛いのか。

<わたし>という存在は、だれかある他者の意識の宛て先としてかたちづくられてきたものだからだ。「わたし」が「他者の他者」としてあるとすればとしてあるとするならば、わたしをその思いの宛先としていた二人称の他者の死は、わたしのなかにある空白をつくりだす。死というかたちでの、わたしにとっての二人称の他者の喪失とは、「他者の他者」たるわたしの喪失にほかならないからである。以後、わたしの思いはいつも「宛先不明」の付箋をつけて戻ってくるしかない。そのとき、わたしもまたその「他者」の他者として死んだといえる。

他者との関係によってはじめて、自己の存在を<わたし>として意識する。<わたし>の存在には可逆的な自他の人称関係が先行している。「わたし」はわたしだけのものではないという了解のうえでわたしは自分をわたしとして表現できる。「わたしの死」という言説は、非人称的な語りである。

<死>とはひとの存在の消滅として生きているひとによって受けとめられる。存在に限りがあるということは、強い相互依存があった旧村共同体にとって影響が大きい。人手が足りなくければ共同体の維持が不可能になる。そのため村共同体には厳しい掟や加入儀礼が設定され、死者の葬送は最も重要な儀礼となった。これに対して現代社会では個々の死はシステム内の匿名の項の些末な入れ替えとしてしか現象しない。そのため、そのシステムの外部に自らの存在を確認せざるを得ない。

システム内での微妙な差異の確認だけでは、「この人」としての特異な存在はそもそもがもたないのである。が、システムの<外>には自己存在の根拠というものがない。すでに観てきたように、「わたし」は「他者の他者」としていつもわたしの存在を宛て先とするひと、つまり対項を必要とするのだ。そして関係するその両項は、それぞれに「わたし」として誕生したときには(特異な者としては)すでに死んでいる。「わたし」にこそ共同性の決定的な刻印がなされている。だから、ひとはたえず他者との関係のなかでみずからの存在を整形し、他者とのその差異のありかに神経を消耗させずにはいないのである。私的所有への尽きせぬ願望というのも、モノの所有者として、いいかえると、みずからの意のままに処置できるものを所有する「主」体として、他者との関係から切れたところでみずからの存在を確認したいという、それじたいとしては不可能な夢でしかない。だからモノを所有する者としてのじぶんの存在が、ということはじぶんの死が、いかに軽量のものか、内心では気づいている。