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「マルセル・プルーストの誕生」 鈴木道彦


本書は旧版「プルースト論考」にあった小文を削除し、その後に発表された文章を付け加えて纏めたもの。この辺のところの事情は、序章「プルースト遍歴」に詳しい。500頁を越える著作だが、読みやすい文体で専門家ではない管理人でも面白く読めた。

管理人が「失われた時を求めて」を読んだのは20数年前、井上究一郎さんの個人訳だった。筑摩世界文学体系の「プルースト」の巻として出ていた頃で、訳が出揃うのを待って読んだ記憶がある。一つの文章が「牛の涎」のように延々と続くのに閉口しながら何とか「見い出された時」までたどり着き、回想の意味がやっとわかった。「見い出された時」には語り手である「私」が相当な高齢になっており、辻褄が合わないところもあってやはり死後出版のせいなのかと思った。

マルセル・プルーストと言えば、同性愛者の喘息持ちでいつもコルク貼りの部屋のベットで寝ているイメージがあった。実際のマルセル・プルーストには親の財産で社交界に入り浸り、男娼窟へも足繁く通ったスノッブという面もある。結果的にマルセル・プルーストは「失われた時を求めて」を書くためだけに作家になったような感じがする。喘息になったことも社交界や男娼窟へ行ったことも全てが「失われた時を求めて」のためだったように見えしまう。ユダヤ人問題についても、プルースト自身は反ユダヤ主義者のかのように思えてもスワンは魅力的な人物として描かれている。日本の私小説とは違い、語り手の「わたし」とプルーストとの関係は複雑だ。

ユダヤ人とはプルーストにとって、悪であり、疾患であるほかなかった。それにもかかわらず、プルーストはやはり名誉回復を切望してもいたのである。そしてその名誉回復は、当然のことながら、他者の主体によって行われなければならなかった。いわば自分を客体としたままで、他者の主体によって損なわれた名誉が、他者の主体によって回復されないかぎり、烙印は消えることがないのである。

管理人は作家の伝記的な本をよく読む。作品やテキストと作家の実人生とは無関係だという評論もあるがどうして作家の子供頃や学生時代どんな本を読んだとかが気になってしまう。自分の年齢に何をしたかと年譜を見てしまうこともある。本書の表題となっている「マルセル・プルーストの誕生」は幼少期のプルーストを描いている。作家の伝記について作者は次のように述べている。

私はほぼ確信を持って言えるのだが、作家の伝記はこれからもまだ当分のあいだ、数多く書かれるにちがいない。何よりもまず、一つの作品を前にした読者が、それを書いた実在の人間に、しばしば思いをはせるからである。この関心は、素朴ではあってもきわめて根強いもので、その上、少なくとも二つの正当な理由を含んでいる。第一に読者は、自分が本を読む時間と、生活する時間、読書という行為によってもたされる世界と、読書しつつある自分をとりまく現実の世界とのあいだの、非連続性を知りながらも、それと同時に、そのあいだの屈折した連続性をも十二分に承知しているからである。そして第二に、人は決して作家に生まれるのではなくて、作家になるものだからだ。もし仮に作家が、日常生活の人間の「死」の上に生まれるのだとしても、作家はそのような「死」を選ぶ人間なったのであって、初めから死んでいたわけではないのである。