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「写真論集成」 多木浩二


本書は10年位前に読んで今回再読した。東川町国際写真フェスティバルのポートフォリオオーディションにでることになったので、写真論を読み直そうと思った。自分が撮影した作品について語るのは難しい。作品の意図とかテーマについて説明しても他の人の見方は違っているかもしれないし、ひとつの見方しかできない作品というのもそれ自体つまらないものになってしまう。写真そのものについて語ることの難しさは本書の第一部「写真を考える」を読むとわかる。この第一部は他の部に比べて難しい文章が続く。Provokeの頃の写真論は特に難しい。

著者はその後「Provoke」について語ることがなくなった。それは著者に何か嫌な経験があったらしいが、著者は故人となってしまったし、当事者の中平卓馬さんは記憶障害でその記憶が飛んでいるため当時のことについて何かを語ることが不可能だ。現在では、写真とは何かとか写真の可能性についてに語るような青臭いことをするひとは少ない。著者が写真は芸術ではないと言ったのは写真の独自性を探求する意味であったが、今では写真が現代アートの一分野となり独自性の有無をいうひとはいない。

意味のあるのは、写真がたんに現実のアナロジーであることではなく、それを目にしたときわれわれの想像力が働いて非現実的な世界を体験することができるかどうか、つまり現実をこえた意味が見出せるかどうかということである。紙の上の化学的な変化の痕跡なのではなくてそこからはじまる想像力の世界をわれわれが所有できるかどうか、日常的現実にたいしてひらかれた窓ではなくて、そこにないもうひとつの現実にひらかれた戸口でありうるかどうかということにかかわっている。つまり、見えるものにひきとめられてしまう写真の場合でも、そのなかに目に見えず動いている想像力の働きは、いま手もとにはない始源的なものへ直接われわれを触れされることにある。

第三部の「あるメディアの墓碑銘」を読み直して、改めて「ライフ」の写真への影響の大きさを感じた。テーマに沿った写真の選択とレイアウト及びキャプションによって物語性を生み出して行く手法は、現在でも生きている。あらゆる出来事は「物語」化する。そこから写真には「物語性」をもつことが要求される。日本ではテーマ写真というといまだに「ライフ」のスタイルを指すような気がする。

「見る」ことはカメラマンの「見る」行為からはじまるというより、編集のシステムからはじまり、「見る」経験を変質してしまう。少なくとも、われわれにとっては、「見る」とは、意味以前にさかのぼっていくことである。「見る」こと「見られる」対象の解釈をわが身に拒絶することを含んでいるのだが、ここでは「見る」ことは「見せる」技術に回収される。かくて世界はひとつの見世物になる。ベンヤミンのいう「展示」、アンリ・ルフェーブルのいう「陳列」の思想があらわれてきたのである。