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「死の鏡」 多木浩二


死ぬ前年に撮影されたロバート・メイプルソープのセルフポートレートに、顔がアウトフォーカス気味で手前のドクロがついた杖を握った手にピントがあっているものがある。その顔は四十代前半と思えないほど老け込んでいる。黒い背景に黒い服装で、ロバート・メイプルソープの顔が中空に浮かんでいるように見える。本書はこのセルポートレートを観て衝撃を受けた著者が視覚の負の極限を辿りつつ、われわれの生きている世界がどのように変わってしまったか考えてみたもの。

本書はロバート・メイプルソープそのものについて論じるわけではなく、「死」そのものを問おうとしているのでもない。HIVウィルスに感染し死に行くロバート・メイプルソープが撮影した自分の写真をめぐって何が起こるのか、「自己の死」のイメージのまわりになにが仕組まれているのかについて議論をすすめる。この写真にはまだ死は実在していない。あるのは自己の死を見る視線だけで、ただ自分をみせているだけである。

メープルソープの写真がなんらかの思考をかきたてるものであるのは、たんに死の問題であるより、その写真では、人間が写真をつくるというより、写真が人間(というイメージ)を生みだすようになってしまったからかもしれない。そこには、人間に属さない視線が含まれており、比喩的に純粋な視線でしかメープルソープは自己の死が言説化されないことを知っていたかのようである。言説としての自己の死と呼んだものは、こうした純粋な視線への問いと絡まってしかあらわれないことを知っていたかのように。

死というのは他人の死しか経験できず、自己の死は自分にとって経験不可能なものである。死を巡る言説も世間的な知なかで成立する「他人の死」に関するものだ。戦争の写真や報道写真にも死が現れることがあるがそれはある物語として了解可能なものである。「写真が安全な場所からの覗き見である」といわれるのも社会的な了解に収まってしまうことを指している。メープルソープの写真には、このような死の社会的な了解を拒絶する視線がある。この写真を成り立たせる視線は異質なものへの問いとして現れる。

このメープルソープの写真は、写真というもののひとつの極限なのだ。一般に写真は無垢で発生してきて社会に受け入れられている物語に同化されるのではなく、あたらしい経験の場に向けて、自分を組み込む社会的な物語の環を切り離す機能を、まだわずかでも残したイメージなのである。写真がわれわれをひきつけるのは、その事実性でもなく(それをわれわれは理解するが魅了されない)、社会を自足した物語として提示することにあるのでもない。かりに物語に織り込まれていても、その環をつなごうとしてもつなげない仕掛けを導入してしまう。人によってはそれを写真は解釈の多義性をもっているというかもしれないし、写真の意味は言語を添えることによってのみ確定する。本来、不確定で曖昧なものにとどまるというかもしれない。メープルソープが写真によって結局なにを伝えようとしたかも、不明のままに終わるのだ。しかもその空虚がこの写真の不気味な魅力なのだ。しかし、そもそも世界が完全に読み取れるとはだれも信じていないのである。それはつねに決定的にはわからないままにとどまる過程なのだ。メープルソープの写真は、それ自体が未完のテクストであると同時に、世界を未完のテクストの状態で発見することを促すのである。

管理人が十数年前にメープルソープ展を見たとき驚いたのはオリジナルプリントの美しさとその値段だった。その写真展では展示販売をしていたので、係のひとに値段を聞いてみて衝撃を受けた。多木さんとは違う衝撃で情けないが。今回「死の鏡」を再読してみて、読んだことがある多木さんの写真論の中で一番面白かった。