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「バカになったか、日本人」 橋本治

バカになったか、日本人

本書は著者が2011年から2014年に新聞や雑誌に書いた文章を一冊にまとめたもの。前半が東日本大震災と原発事故の話題で、後半は主に政治・政治家の話題。新刊案内のメールがきて、本屋さんに行ったがどこにもなく、結局アマゾンで購入。真っ赤な本に「バカ」という文字が白くなっている刺激的な装丁。集英社の本を買うのは久しぶりなような気がする。

前半の東日本大震災と原発事故についての文章は、技術的な話ではなくひとの問題に関するもの。時局的なものは時間が過ぎると「忘却の彼方」にいってしまい、「そんなことがあったの」となってしまうことが多い。原発より厄介なのは、「初めに結論ありき」の東大出の揺るがない官僚の思考と著者は述べている。なぜ揺らがないかというと「東大以外大学ではなく」と考え、その中でも「自分は特別な法学部出身」だから怖いものがなく揺らぐ必要がない。人の話を聞いても、自分の意見は変えない。原発再稼働の「初めに結論ありき」の日本的議論の進め方について著者は次のように述べている。

「原発そのものは安全なのか?」という議論は、「万一原発が事故を起こした時にとんでもないことになったりしないのか?」という議論を含んでいて、福島第一原発の事故があった日本では、既に言ったようにこの答えははっきりしています。とんでもないことになって、二万五千年ほど待てば人体に有害な放射性物質は無害になるという。つまりは、「ずーっと有害」なんです。
でも「○○原発は安全なのか?」という議論は違います。こちらは「事故が起こったらどうなるか?」ということを考えません。こちらでの「安全」は、「事故が起こるのか、起こらないのか」のジャッジだけです。「事故が起こったらどうなるか?」は、「原発そのものは安全なのか?」という議論の中に含まれるものですが、それがどっかに行って、議論が「この原発は安全かどうか」になったら、「もし原発が起こったら-」という考え方をしなくてよくなるのです。どうしてかと言えば「津波に襲われた福島の原発とは違って、この原発は、事故を起こさないように、カクカクシカジカと考えて造られています」と示すだけで、その「安全」が保障されてしまうからです。
・・・「反対」でもない「賛成」でもない。ただ「保留」の沈黙がしばらく続いて、その後に「初めに結論ありき」だった方針が動き出すというのが、日本式の議論のすっ飛ばし方です。そういう相手に「こっちの言うことも聞いて下さい」といっても無駄です。相手は聞いていないわけではないのですから、「聞いていますよ」で終わりです。

政府が福島第一原発を30年で廃炉にすると言っても、メルトダウンした原子炉内部にある高レベル放射性廃棄物は10万年近く管理しなければならないと言われている。何万年単位で管理は可能なのかもよくわからないが。

日本では二世三世議員が増え、そのうち総理大臣は、歌舞伎役者や落語家のように何代目「なんとか総理大臣」になんるじゃなかろうか。「7代目はなかなか政策通だったけど、8代目はやんちゃなだけだよ」とか言われ、総理大臣が議会に登場すると「いよっ、なんとか屋」と声があがったりしたりして。閑話休題、後半の話題は政治に関わる文章が集められている。本の題名の「バカになったか」は後半にでてくる。島田紳助についてふれた文章で「おバカブーム」をつくだしたのが彼だったというは知らなかった。「おバカブーム」は多くの人に癒やし救いを与えた。しかしながら、「おバカブーム」は「バカでもいいんだ」という知能の空白状態を作り出してしまったことが問題だと著者は述べている。特定秘密保護法や集団的自衛権について色々な議論あってもよいのに日本国民はあまり関心がなく、「景気回復」以外のことは全く考えていないように見える。

「政治家は有権者の顔色を窺っている」などということが言われるが、その一方で政治家は、反対意見を持った国民を「身内」とは思っていない。そう考えると、特定秘密保護法の性質もはっきり分かる。あれは、「私たちに任せておけばいいんです。国民は余分な心配をしなくてもいいのです」という法律で、私がこんなことを言うこと自体が、「余分なことをお考えにならなくてもいいんですよ」に該当することではあるのだろう。
民主主義で国民の政治参加は必須だけれど、いつの間にか「民主主義を野放しにしてしまうと、まとまるものもまとまらなくなってしまう」という状況になってしまっているようだ。ひどい言い方をすれば、「民主主義の結果、日本人はバカばっかりだ」という考え方が知らない間に一般化して、政治家が「私たちに任せておけばいいんです。あなたたちは、私たちを支持していればいいのです」と囁きかけるようになってしまった。でもそれは、「国民の政治参加」とは言わない。「国民の政治的動員」という、民主主義とは違うところで起こるもので、黄門様や黄門様の発言で揺れる将軍様のいる政治は、やはり現代のものではないはずだ。