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「20世紀写真論・終章」 西井一夫


著者生前に出版された最後の本。「写真編集者」は編集作業途中で著者が亡くなった死後出版。「おわりに」のあとに「さらなる後記」があるのは、校閲の途中で著者の癌が再発して入院したため。「さらなる後記」には写真展にいく体力がないので、写真を見せたいひとは吉野まで来て下さいと書いて、最後まで写真に対する著者の情熱というか執念が覗われる。

西井さんの著作では、「PROVOKE」について知りたく、「なぜ未だ”プロヴォーグ”か」を読んだのが最初だったと思う。その当時、中平さんの著作は絶版で、古本屋では高値で取り引きされとても買う気がおこらず、「PROVOKE」の同人だったひとたちも「PROVOKE」について語ることがなかった。多木さんなどは「PROVOKE」について語ることを明らかに嫌悪していたように思えた。この失われた「PROVOKE」を求めて行き着いたのが西井さんの著作だった。

では、写真的認識眼とは何か。
主体-被写体のどちらの軸にも眼を位置づけず、写真をたんに写真家の創造行為でも、被写体のためでもなく、写真として考究しつづける眼のことである。すなわち、写真というメディアでは、見出すことが創り出すことのかわりをする、という写真によって打ち立てられた「”発見”の美学」を立脚点とすることである。写真においては、被写体はシャッターが切られるたびに新しく発見され、写真によって私たちは人間の動作の表現が無限に豊か複雑なものだということを知ることができる。そのことはとりもなおさず、自己認識の世界が拡大するということだ。既成の言葉と概念とパターンとでつくりあげてきたイメージとしての人間ではなく、現に生きている人間という生きもののしでかすとんでもないありさまや、肉眼では正視できないむごたらしさや、とらえられない驚異が現実性と具体性を持って立ちあらわれてくるのだ。

本書で著者はローマン・ヴィシュニアックを再三取り上げている。ヴィシュニアックはロシア系ユダヤ人で、顕微鏡写真を撮影していた。1930年代後半ナチが台頭したとき、ヴィシュニアックは東欧ユダヤ人社会を撮影しようと決意する。ヴィシュニアックはラトビアのパスポートを持って、東欧を旅する。経済的理由と政治的危険性のため1シーンでシャッターは1回しか切らなかった。4年間で1万6千枚以上撮影したが、そのうち2千枚以外はすべて没収された。ヴィシュニアックはアメリカに渡り、肖像写真や自然科学写真を撮り続ける傍ら、自身が撮影した1930年代東欧ユダヤ人社会の写真を公表すべく奔走した。彼の東欧ユダヤ人社会の写真が本格的に公表されたのは1971年のことで、写真集は「A Vanished World」として1983年に出版された。その時ヴィシュニアックは86歳になっていた。

ローマン・ヴィシュニアックのしたことは、ナチスのたくらみをその根底からくつがえそうとする「勝ち目のない否定」であった。彼はナチスに奪われた一人一人の名前を、忘却の淵から連れ戻す。そうして、ワルシャワ・ゲットーの地下室にひと冬中靴がないため閉じ込もっていなければならなかったサラのことを物語る。彼は、自分自身であることが不可能とされた死者に、彼らが彼ら自身であった記憶の時を与えていく。119104号という記号以外の何者でもなかったフランクルが『夜と霧』のアウシュヴィッツから生還して、みずからの名を取り戻したのとはいささか異なるレベルで、彼は死者に名を取り戻していくのだ。それは無名の集団墓地に、個々の墓碑銘を立てていく行為であり、文字どおり名もなく埋められた者たちの名を(横から縦へと)立てることである。そのようにして写真は「視覚的記録」であることを超えて「一つ一つの長い物語りをそれぞれに含んだ記憶の動いている写し絵」となる。