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「写真のよそよしさ」 西井一夫


エアロスミスの”ロック・フォー・ザ・ライジング・サン”を見ていたら、ブラッド・ウィットフォードがインタビューで「たとえライブの2時間でも辛い事を忘れさすのが俺たちの仕事さ」と言っていた。この作品は震災後の2011年ジャパンツアーの映像。前回の来日時には管理人も東京ドーム公演を見に行ったが、2011年のジャパンツアーには行かなかったというか行けなかった。辛い事でも忘れていけない事を記憶・記録に残すのが写真家の仕事か。本書は、ロバート・フランク、ダイアン・アーバス、ルイス・ボルツ、ヨゼフ・クーデルカ、ピーター・ビアード、アウグスト・ザンダーと海外の写真家を取り上げている。ダイアン・アーバス論は「暗闇のレッスン」からの再掲。西井一夫さんの本を読み直すのも「写真のよそよしさ」が最後。

西井さんはマグナムの写真家への評価が高い。ロバート・キャパに対する手放しの称賛は何か違和感を覚える。西井さんに小言を言われた写真家が「ボスニアへ行けということですか」と反論してたきたという。西井さんは”アラーキー”の「私写真」はべた褒めで、その当時の若手写真家の「私写真」はクソミソというか評価対象外にしている。奥さんが入院し亡くなって寂しいから飼い猫を撮っただけのような「愛しのチロ」と若手写真家の「私写真」とは何が違うんだろうと管理人は思った。西井さんの若手写真家に対する批判はそのまま”アラーキー”に当てはまるようにも思えた。篠山紀信さんが「奥さんの遺体を撮って写真集に載せてはだめだ」というようなことを言っていた。篠山紀信さんは”身内の写真”を作品として発表していないと思う。”アラーキー”的私写真が評価されるというのでまねをする写真家が多数でてきたのは確かだけれども。

私が本書にまとめた小論で明かそうとしたことは、「だれ」に係わる。つまり、写真家とは「だれ」かという<写真家の正体>を明かそうとした。そうして、ここで触れた写真家たちを記憶に留めることであった。むろん私などが敢えて、拙い文章で書き留めずともこれらの写真家は記憶されていくだろう。しかし、いかなる記憶としてか?この写真家たちが、各々独自の仕方で世界が出現する空間を与えたように、(そのように、世界が出現するために写真を駆使した人を私は写真家と呼びたいのだ)、その独自の仕方がどのようなものか、かれらが単に存在するのではなく「外形をはっきりと示す空間」に描き出すこと、彼(女)らの記憶を、「私たちがかつて栄光と呼んだ光輝く明るさ」(その明るさを持つ空間が公的領域だった、ポリス)の中に描くことが、私の企画であった。彼らの「正体」を明かすことが、どこまでできているだろうか。