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「おとなの背中」 鷲田清一


本書にはあとがきがなく、まえがきは京都新聞のコラムなので、本書の成立等の説明がない。初出一覧を見ると新聞に発表された比較的最近のエッセイが収められている。同じ時期に複数の新聞に発表されているので内容が重複しているものもある。内容が重複している箇所はその時著者が一番言いたかったことなのだろうと思う。文章は内容によって章分けされており、時系列的にはなっていない。

時期的に「東日本大震災」・「いじめ」・「体罰」・「環境」が新聞上に多く取り上げられていたので、教育や原発事故含んだ震災に関するエッセイが多い。子供は大人のかがみとか大人の背中をみて育つと言われるとおり、中学校・高校でおきる問題はその時の大人の世界を反映している。所謂「援助交際」が問題になった頃、女子高校生の「自分のからだを売って何が悪い」という発言を聴いて著者はおとなの世界の丸写しだと思った。何かを所有しているとはそれを意のままにできることだという大人の社会のロジックである。メディアで大きく取り上げられた「大津市の中学校のいじめ」事件でも、教育委員や校長を責め立てるメディアやネットとそれに同調する大人達の糾弾の構図に子どもたちの「いじめ」の構図にぴたりと重なると著者は述べている。

東日本大震災後、「幽霊のように」流通している言葉に「絆」がある。「絆」はもともと「動物をつなぎとめる綱」を意味する。何か具体的に必要かが見えるときに比喩の言葉を必要とするとは思えない。とすれば「絆」は言論を生業とする人たちのあいだで流通している言葉のように思えると著者は述べている。「つながり」を否定する人はいないから、反対できない匿名の言葉として流通しているだけではないか。他者とのあいだに存在する差異を知ることは痛い認識であるが、それを通してでしか本当に必要なものは見えない。「絆」という言葉の被いは、多様性の前提となる差異の存在を覆い隠すものになってはならいと著者は言う。

本書で繰り返し紹介されている言葉にたこ八郎の「めいわくかけてありがとう」がある。たこ八郎は「あしたのジョー」のモデルといわれた元プロボクサー。左目が殆ど見えず、相手に打たせるだけ打たせておいて最後にカウンターパンチで仕留めていたそうだ。ボクサー引退後はコメディアンとした活躍した。管理人が憶えているたこ八郎はろれつが回らない変なおじさんという感じだった。「めいわくかけてありがとう」はたこ八郎の墓石に刻まれている言葉。こんないいかげんなじぶん、迷惑をかけたどおしのじぶんに、最後まで付き合ってくれた人、逃げないでいてくれた人への感謝である。その人たちは大事な時間をじぶんのためにくれた。その時間がもったいないとか無駄だとは思わないでいてくれたことへの返礼だったのだろうと著者は述べている。

人には、そして人の集まりには、いろいろ困難や苦労があります。それらを避けたい、免除されたいという思いもつよくあります。けれども免除されるということは、だれか他の人に、あるいは社会のある仕組みに、それとの格闘をお任せするということであって、そのことが人をいっそう無力化するのでした。これに対してわたしは「人生には超えてはならない、克服してはならない苦労がある」という、ひとりの神学者の言葉を思い出します。苦労を引き受けることのなかにこそ、人として生きることの意味が埋もれていると考えるからです。そしてその苦労はだれも独りで背負いきれるほど小さなものではありません。さきほども見たように、そこにはじぶんという者が存在することの意味への問いまで含まれているのですから。そしてじぶんが存在することの意味は、他の人たちとのかかわりのなかでこそ具体的に浮かび上がってくるものですから。「支えあい」が、余力のあるときに、というのではなく、つねに求められるものであることの理由は、こういうところにもあります。