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「ことばの創りかた」 別役実


本書は演劇に関する評論集。昨年出版されたが、いちばん新しい評論でも1998年発表で、古い評論では1968年発表のものもある。取り上げている劇作家は、つかこうへい、井上ひさし、安部公房、三島由紀夫、田中千禾夫、サミュエル・ベケット、ハロルド・ビンター、フェルナンド・アラバール。安部公房とサミュエル・ベケットの章が他章に較べて長い。

安部公房の「友達」に関する評論は100頁近くある。初出一覧によると「季刊評論」1970年第2号から1972年第6号に連載された。安部公房の「友達」は、ある男のアパートに男の知らない9人家族が押しかけ住み込んでしまうという不条理劇。「闖入者」という短編小説が原案だったと思う。小説を読んだときは変な話だと思った記憶がある。戯曲のほうも読んだが、実際の舞台はTVでしか観たことがない。そのTVを観ているとき、あらすじを母親に話したら「そんなばかなことはない」と怒っていた。実際「友達」の海外公演では怒って退席した観客がいたという話を聞いたことがある。この評論では、別役的視点での台詞の言い換えなどがあり難解な部分が多い。この評論が書かれたとき、安部公房さんはどのように反応しただろうか。

不条理劇と言えばベケットということで、本書でもベケットを取り上げている。なぜか管理人が読む本には難解なベケット論が登場することが多い。ベケットに関する評論を読んでもさっぱり分からず、不条理劇が不条理なのは不条理劇について語ることではないかと首をひねってしまう。本書のベケット論には、唱歌「待ちぼうけ」と落語「馬のす」を取り上げたものがありわかりやすかった。「ゴドーを待ちながら」を「待ちぼうけ」との類比で論じるところはさすが別役的視点と思った。兎が木の切り株に躓くのを待ち続ける農夫。この農夫がミイラ化するまで待ち続けるとなると何となく不条理劇的になる。著者は、舞台にウラジミールとエストランゴがへたり込んでいて、少年が現れ「ゴドーを待っているのかい」と聞き、二人が「いや、俺たちが待っているのは兎さ」と答える、というギャグを思いついたそうだ。このギャグを思いついて以来、著者は余りにも東洋的で牧歌的な風景と、「ゴドー」の作り出す西洋的で近代の果てのような風景を、重ねあわせて考える癖がついたという。

「待つもの」への関心から「待つこと」への関心に移行することにより、奇妙な話だが、「待つもの」それ自体が変質する。変質させてまでも、自分自身の「待つこと」を正当化しようと考えはじめるのである。この逆転が我々の待つという行為における、最も奇妙な点と言えよう。そしてここから、それを待っていると言えば万人が納得する、万能の「待つもの」はないだろうか、と考えはじめる。
この点に基づいてウラジミールとエストランゴの考え出したのが、「ゴドー」にほかならないと言っていいだろう。もし、前述した街角の男がこれを知っていたら、そして、知人が近づいて「誰を待っているんだい」と聞いた時「ゴドーだよ」と答えていたら、数時間後にまたその知人がやってきて「まだ待っているのかい」と怪しんでも、「待っているのはゴドーなんだから」と、平然とやりすごすが出来たに違いない。「ゴドー」こそ、万能の「待つもの」なのである。
このように考えてみると、『待ちぼうけ』の農夫から『ゴドーを待ちながら』のウラジミールとエストランゴまで、連続しているものの大きく屈折していることがわかる。この屈折を強制したものが何なのかよくわからないが、感覚的な言い方をすれば、農夫が放射した無限の彼方への関心が、有限宇宙の境界にまで達し、そこから反射されてきているようにも思える。『待ちぼうけ』の空間は、開放的で明るいが、『ゴドーを待ちながら』のそれは、閉鎖的で暗いのである。