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「写真との対話」 森山大道

管理人が読んだのは改訂版のほうで、オリジナルは1985年に出版されている。改訂版後記によると全体で数カ所文章を直し、巻末にあったQ&Aが削除されて、写真も入れ替えられている。略歴は1985年のままである。改訂版「写真との対話」は現在絶版状態で、新刊で入手できるのは「写真との対話、そして写真から/写真へ」合本版。定価だけなら合本のほうが2冊買うより安い。

本書にもベケットの「ゴトーを待ちながら」のことが書かれていたのをすっかり忘れていた。今回読み直していて森山さんが「ゴトーを待ちながら」に言及するとはあまり予想していなかった。ゴドーは原文だとGodotなので、必ずしも神というわけではない。Godotとは何者か、といかひとなのかどうかもわからないし、待っているのは希望、期待、権力といったものかもしれないが、とにかく様々な解釈がなされている。写真家なら決定的瞬間を待っているのか。

“写真との対話”について著者は次のよう述べている。

写真との対話とは、単に写真そのもののことや、撮る僕自身との語り合いなどではなくて、カメラを介して、個が世界に向けて語りかけていることなのである。そのことは逆に、撮る行為を通して、世界から語られてくる言葉を聞くことだと言ってもいい。僕の言う世界とは、目に見える外界ということだけではなく、具体的には時間である。僕は写真を撮り、写真と対話することによって、人間の持つ悠久の時間を、僕(個)の持つささやかな時間を通して、垣間見ようとしているのだ。

本書は著者と写真との関わりの中で、“対話”し続けてきた言葉の軌跡を集めたもの。「アサヒカメラ」「毎日グラフ」「カメラ毎日」などの雑誌や新聞に発表された1985年までの文章が収められている。この頃はフィルム写真時代なので、10本撮ったとかと言う表現はデジタルカメラしか使ったことないひとには感覚わからないかもしれない。フィルムは沢山撮ると結構お金がかかるので、フィルム写真の頃は枚数を惜しんで撮っていた気がする。いまなら要らないカットはカードから削除できるけれども、フィルムの場合は現像するまでちゃんと写っているかどうかさえ確認できなかったから。

「写真とは何か」とか「写真に何が可能か」とか考えても解答は見つからないが、写真家はつねに問い続けるけなければならい。問い続けるとは撮り続けるという意味でもある。「書を捨てよ、写真を撮りに街に出よう」といったところだ。

ただ、僕の周囲に生起するあらゆる現実を一瞥し、つねに皮膚で交差しながら、何かを捜しに行く途上で、もし、おぼろげにでも垣間見えてくるならばさいわいなことだと思う。圧倒的に立ちはだかって、なまなまとした現実と、たかだか小さな複写機(カメラ)で「これが現実だよ」と切り撮ってくる作業との間には、埋めつくせないギャップを感じるのだが、ややオーバーに言うならば、それは、僕自身の生と引き換えに、その中に分け入ってみる他はないな、といま思っているからである。この連載に当たっても、何かを僕がレンズで写すのではなく、何かが僕のレンズに飛び込んでくるまで、シャッターを切りつづけることしかないように思うのだ。