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「現代写真論」 シャーロット・コットン

今はまさに写真の時代である。写真はもはやアートの世界の一分野とみなされ、写真家たちも当然のように、ギャラリーや写真集を自らの作品発表の場と考えている。写真史を振り返れば、写真を絵画や彫刻と並ぶアートのひとつの形態に、そして観念伝達の手段にまで高めようとする試みが絶えず行われてきたことがわかるが、今日ほどそれが活発におこなわれたことはない。今や、写真を「アート」として認識させることが、多くの写真家の野心となっているのである。
本書の目的は、現代美術の文脈で議論に値する写真家を羅列することではなく、現在の写真制作の背後にある一連の動機や表現の拡がりをとらえることにある。それはひとつの実地調査のようなものであり、たとえば、ニューヨーク、ベルリン、東京、ロンドンといったアートの中心となる都市で行われる展覧会を観て回るようなものといえばいいだろう。

本書の原題は「The Photograph as Contemporary Art」で、現代アートの視点で写真を論じるという感じだ。芸術を出しにして写真を語るといったところか。横浜トリエンナーレや美術館の展示を観て、現代アートの作品がどんどん多様化するというかわけがわらないものになって、現代アートは難ずかしいと印象を管理人は持っている。今やっと写真がアートの一分野に成り上がったのか成り下がったのわからないが、写真の作品が今までに較べると異様に高額に取引されている。写真は複製可能で、一点物の絵画、彫刻、茶碗、掛け軸等と違い、あまり高額になることはなかった。本書でも取り上げているグルスキーの作品は3億円とか4億円の値段がするらしい。アートとして写真は一点一点に番号を付し、何枚以上は複製しないという決まりがあるらしい。以前、ロバート・メイプルソープの写真展で、オリジナルプリントが500万円で売っていて驚いたのも今昔の感がする。

現代アートに疎い人間としては、美術館の学芸員というかキュレーターのかたは写真を見てよくこれだけ読み取るなあと皮肉では無く感心してしまう。ウォーカー・エヴァンスの有名な写真を複写して、額に入れて作品として展示するというもアートだとあったのはちょっと戸惑ったけれども。本書で取り上げている写真家で管理人が知っているのは二割程度か。西井一夫さんの本で、アラーキーの私写真とヒロミックスの私写真とは本質的に違うとあったけれども、本書ではアラーキーもヒロミックスも同じ私写真のカテゴリで論じられており、本書の著者のほうが納得いく論だと思った。現代アート系の写真家の手法は思いのほか古く、フィルム大判カメラを使うことが多い。新しいものを追求すると先祖返りするのだろうか。

私たちのさまざまな経験を抽象化し、それに形を与えるという写真の不変の能力は、アナログ写真の伝統を参考にしても、デジタル写真の容易で安価なツールを通しても、継続的に再生され、繰り返されているのである。写真画像にタグをつけ、ネットで閲覧し、編集し、またそれを受け取り普及させるような時代のなかで、私たちはかつてないほど写真という言語に時間と労力をかけ、専門的な技術と知識を得ている。そして写真が、切り取られた現実の一瞬の、中立なあるいは透明な伝達手段とは、いかにかけ離れたものとなりうるかを理解している。ここで取り上げた写真家たちは、写真の過去に対する私たちのフィジカルでマテリアルな理解を言い換え、コンテンポラリーアートとしての写真のボキャブラリーを拡大し続けている。写真を作ることにはどんな意味があるのか、その問いに対するさまざまな活動の仕方や考え方を、彼らは示してくれるのだ。