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「おじさん的思考」 内田樹

「おじさん」的思考

内田樹さんの本を最近読み始めた。本書は対談を除くと2冊目の本となる。管理人の記憶では、「おじさん的思考」で内田さんは一気にブレークしたように思う。本書もウェブ上で書かれたエッセイを編集者が選んでまとめたもの。とにかくウェブ上に一定の水準を保って毎日書き続けるというのは難しいこと。著者の場合、書きたいことがたくさんあって文章が長くなってしまうらしいが。

13年前に出版された本書でも、日本国憲法改正の話が出てくる。ここ何十年かは、憲法改正といえば国防の話ばかりがクローズアップされている。天皇制等の他のことについては、触れられることが少なく、「憲法9条」巡る攻防という様相を呈している。日本では左のひとが反米軍基地反対で、右のひとが親米で米軍基地容認ということが多い。反米愛国のような「ねじれ」は「憲法9条」と自衛隊との関係にも存在する。

憲法九条と自衛隊は相互に排除し合っているのではなく、いわば相補的に支え合っている。
「憲法九条と自衛隊」この「双子的制度」は、アメリカのイニシアティブのもとに戦後日本社会が狡知をこらして作り上げた「歴史上もっとも巧妙な政治的妥協」の一つである。
憲法九条のリアリティは自衛隊に支えられており、自衛隊の正統性は憲法九条の「封印」によって担保されている。憲法九条と自衛隊がリアルに拮抗している限り、日本は世界でも例外的に安全な国でいられると私は信じている。おそらく、おおかたの日本国民は口には出さないけれど、私と同じように考えていると私は思う。だからこそ、これまで人々は憲法九条の改訂を拒み、自衛隊の存在を受け容れてきたのである。

本書の第三章まではすらすら読めたが第四章になるとスローダウン。この章は漱石論で、「虞美人草」から始まっている。管理人が「虞美人草」読んだのは一度だけで、あまり面白くなかった記憶がある。登場人物では藤尾の印象が強く、それ以外は茫漠している。それに対して「こころ」は何度も繰り返し読んだ。漱石の小説の中で一番好きな小説だった。漱石は「青年はどうやって大人になるのか」という主題で多くの作品を残した。「大人」とは、これこれと事実認知を行う人ではない。事後的にその人が「大人」であったことが分かる、という仕方で人間は「大人」になるのである。だから、漱石が東大を辞めて朝日新聞に「虞美人草」を執筆する決意をしたとき、漱石は近代日本最初の「大人」になったと著者は述べている。

「大人」というのは、「いろいろなことを知っていて、自分ひとりで、何でもできる」もののことではない。「自分がすでに知っていること、すでにできることには価値がなく、真に価値のあるものは外部から、他者から到来する」という「物語」を受け容れるもののことである。言い方を換えれば、「私は***ができる」とかたちで自己限定するものが「子ども」で、「私は***ができない」というかたちで自己限定するものが「大人」なのである。「大人」になるというのは、「私は大人ではない」という事実を直視するところから始まる。自分は外部から到来する知を媒介にしてしか、自分を位置づけることができないという不能の覚知をもつことから始まる。

本書は「日本の正しいおじさんの擁護と顕彰のため」の本とあとがきにある。「日本の正しいおじさん」とはインテリで、リベラルで、勤勉で、公正で温厚なおじさん。ところが「日本の正しいおじさん」の常識は近頃旗色が悪い。心の支えとしてきた常識が悉く否定されている。ここで「日本の正しいおじさん」に寄生してきた「悪いおじさん」は一肌脱いで陣容の立て直しに力を貸したいと著者は述べている。

「おじさん」たちよ、よく聞いて欲しい。
あなたがた信じてきたもの、信じようとしてきたものはいま踏みにじられ、打ち捨てられようとしている。しかも、それに代わるものが示されないままに。
それをそのまま見捨てるに任せるつもりなのか。
弱肉強食の能力主義社会はそんなに素晴らしいものなのか。
家族がそれぞれの利己的目標の追求に夢中になり、誰一人家長に敬意を示さず、集団の秩序のために貢献しない家庭はそんなに素晴らしいものなのか。
暴力をふるうものは、どれほど正義を体現し、大義名分を掲げていようと、一抹の疚しさを覚えるべきだというのは、それほどに世間知らずな言い分なのか。
民主主義は「よりましな選択肢への開かれ」を保証するという点において、どれほど「完璧」な政治体制よりも「まし」であると信じることはそれほどに素朴な考え方なのか。
「正しいおじさんたち」がこれまで信じてきたもの、それはたしかに十分に説得的ではなかったし、歴史的風雪にも耐えられなかった。しかし、それを棄ててしまったあと、いったい何を信じることができるのだろう。どれほど脆弱なモラルであろうとも、「おじさん」たちが有り金を賭けることのできるどんなモラルが他にあるというのだろう。
あるモラルの価値は、その内部に自存するわけではない。それに張られた掛け金の総額がモラルの市場価値を形成するのである。
ならば、もう一度、「不在のモラル」に掛け金を置いてみないか。
それがこの小著を通じて私が「日本の正しいおじさんたち」に送る連帯の挨拶である。