KAZUHIKO KIKUCHI BLOG

「長田弘全詩集」 長田弘


本書は、長田弘さんの18冊の詩集、471篇の詩を収めたもの。巻末には短い自伝がある。生前に刊行された最後の本となった。管理人は、長田さんのエッセイは出版されると欠かさず読んできたが、詩集は一冊も読んでいなかった。管理人は「記憶のつくり方」をエッセイ集だと記憶していたが。「あとがき抄」には、「詩とされるなら、これは詩であり、エッセーとされるなら、これはエッセーである」とあった。「あとがき」をすっかり忘れていて勘違いしていた。

晩年の詩集は、「死」のイメージが強いように感じた。福島出身の著者が体調を崩して入院し、手術が決まり一旦自宅に戻った日に、東日本大震災が起こった。福島の被害の様子がわかってくるなか、著者は再入院し11時間におよぶ手術を受ける。手術後、著者は生死をさまよった。そのとき、著者は異様な寂寞を感じたと「詩の樹の下で」のあとがきに書いている。この一週間は長田弘全詩集をひたすら読んでいた。読んではまた戻りを繰り返した。詩を読むのは大変だった。ひとりの詩人の全詩集を読むということはもうないだろうと思う。詩集からいくつか引用してみる。

ぼくたちにとって、絶望とは
あるなにかを失うことではなかった、むしろ
失うべきものを失わなかった肥大のことだ。
(『われら新鮮な旅人』「無言歌」より)

街にかくされた、みえないあみだ籤の折り目をするするとひろげてゆくように、曲がり角をいくつも曲がって、どこかへゆくためでなく、歩くことをたのしむために街を歩く。とても簡単なことだ。とても簡単なようなのだが、そうだろうか。どこへ何かをしにゆくことはできても、歩くことをたのしむために歩くこと。それがなかなかにできない。この世でいちばん難しいのは、いちばん簡単なこと。
(『深呼吸の必要』「散歩」より)

ひとの自由は、欲するところを行うことにあるのではない。
それは、欲しないことはけっして行わないことにあるのだ。
わたしは哲学者じゃない。ただ一コの善人でありたい。
それ以外の何者になろうともおもわない、と老人は言った。
(『食卓一期一会』「孤独な散歩者の食事」より)

いまは誰も 言葉を 心に刻まない
いつも なくなってしまってからだ
失したものが何か おもいだすのは
(『心の中にもっている問題』「失したもの 1」より)

みずからすることをする、ただそれだけだ。
生命というのは、すべて完全無欠だ、
クソムシだろうと、人間だろうと。
世の中に無意味なものは、何一つない。

偉大とされるものが、偉大なのではない。
美しいとされるものが、美しいのではない。
最小ノモノニモ、最大ノ驚異アリ。
ファーブルさんは、小さな虫たちを愛した。
(『世界は一冊の本』「ファーブルさん Ⅱ」より)

本を読もう。
もっと本を読もう。
もっともっと本を読もう。

書かれた文字だけが本ではない。
日の光り、星の瞬き、鳥の声、
川の音だって、本なのだ。

ブナの林の静けさも、
ハナミズキの白い花々も、
おおきな孤独なケヤキの木も、本だ。

本でないものはない。
世界というのは開かれた本で、
その本は見えない言葉で書かれている。
(『世界は一冊の本』「世界は一冊の本」より)

遠くのあちこちで、点々と、
あかあかと燃えあがっている火が見える。
あれは、人のかたちに編んだ
木の枝の籠に、睡っている人を詰め、
その魂に火をつけて、燃やしているのだ。
信じないかもしれないが、ほんとうだ。
ひとの、人生とよばれるのは、
夜の火に、ひっそりとつつまれて、
そうやって、息を絶つまでの、
「私」という、神の小さな生物の、
胸さわぐ、僅かばかりの、時間のことだ。
神は、ひとをまっすぐにつくったが、
ひとは、複雑な考え方をしたがるのだ。
切っ先のように、ひとの、
存在に突きつけられている、
不思議な空しさ。
何のためでもなく、
ただ、消え失せるためだ。
(『死者の贈り物』「夜の森の道」より)

人は、今も自分が何であるか知っていないのだ。
むごたらしく、理不尽に、
誰かが、どこかで、死んでゆくだけ。
世界には、意味なんてない。
息の詰まるような静けさだけ。
新しい真実なんかない。
変わらない真実が忘れられているだけ。
(『幸いなるかな本を読む人』「哲学の慰め」より)

日々に必要なものがあれば、
ほかに何もないほうがいいのだ。
なくてはならないものではなかった。
なくていい。そう思い切ることだった。
ある日、卒然と、そう思ったのだ。
何がなくていいか、それが、人生の
たぶんすべてだと。それは本当だった。
不要なものを捨てる。人生はそれだけである。
最初に「いつかは」という期限を捨てる。
それから「ねばならない」という言い草を
捨てる。今日という一日がのこる。
その一日を、せめて僅かな心遣りをもって、
生きられたら、それで十分なのだと思う。
(『奇跡-ミラクル-』「徒然草と白アスパラガス」より)