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「日本の原子力時代」 常石敬一


本書は原子力関連のトピックを1年2頁の割合で1945年から2015年までを辿っている。序には1945年以前の核開発の歴史が述べられている。1986年や2011年はトピックが多すぎて頁が不足するのはクロニクルなので致し方ない。

管理人の大学時代の指導教官が1986年のGWに東欧を旅行中、チェルノブイリ原子力発電所の事故が起こった。チェルノブイリから300Km以上離れていたので、あまり影響がないだろうと思いそのまま旅行を続けて、成田に戻ってきたら空港が物々しい雰囲気だったそうだ。ヨーロッパから帰国したひとは放射線測定が必須となり、指導教官も測定したら測定器の針が振り切れて驚いたそうだ。旅行者には詳しい情報が知らされなかったので相当被曝したみたですと指導教官が言っていた。

1945年8月日本に2発の原爆が落とされた。広島に落とされた原爆はウラン爆弾で、細長い形状からリトルボーイと呼ばれた。ウランの量は50kgで、そのうち約1kgが核分裂を起こし、TNT火薬15kt相当の爆発を起こしたと推定されている。長崎の原爆は、プルトニウム爆弾で、丸い形状からファットマンと呼ばれた。プルトニウムの量は6kg程度で、約1kgのプルトニウムが核分裂してTNT火薬20kt相当の爆発を起こしたと推定されている。実際にプルトニウム爆弾が機能するのか確認する実験が行われたのは、1945年7月16日ニューメキシコでだった。原爆に関する報道は占領軍によってとくに厳しい規制を受け、長い間原爆被害の全容が全国に広まらなかった。

原子力発電所の事故は、決してスリーマイル島、チェルノブイリ、福島だけではない。原子力発電所の事故は起きないという前提での情報隠蔽や改竄はしばしば起きている。そのため事故によって改善されるべきものがそのまま放置されることが起こっていた。福島第一原発では1979年台風のため外部電源喪失が起きたが、起動用変圧器の設計を改善したということで、外部電源喪失研究事例の対象から外された。外部電源喪失頻度を低くするためだった。やるべきことは設計改善ではなく、1号・2号機の起動用変圧器の共用を止め、それぞれに変圧器を備えることだったと著者は述べている。

学樹会議の報告書は、日本の原子力政策の行き詰まり・ガラパゴス化の進行の原因の一端が原子力ムラにあることを認めている。物事を単純化し、本質を捉えることは重要だ。しかし、動燃の事故や不祥事を同組織の問題と捉え、原子力一般から切り離すことで見えなくなるものがある。経団連はこのとき、原子力ムラの存在を見ようとしていなかった。04年、美浜原発の死亡事故について『原子力安全白書』(04年版)は、「今回の事故の直接的な原因は「関西電力(株)、三菱重工(株)、(株)日本アームの三者が関与する二次系主要配管の減肉管理ミス」によ」る、と指摘している。あるひとつの組織を槍玉にあげればそれですむ問題ではないのだ。
同じような「切り離し」が原子力ムラの伝統で、79年のTMI事故ではPWR型が事故を起こしたにもかかわらず、日本で稼働しているものは製造企業が違うとして教訓を汲み取ろうとしなかった。86年のチェルノブイリ事故では、日本にはない黒鉛炉だからということで事故原因やその後の処理について経験を取り入れようとはしなかった。原発の型の違いを重視し、核分裂の制御ができずに事故が起きたことを殊更に軽視して、安全を言い募ってきた。技術開発の歩みは、一度出来上がった体系を脅かす軽微な事故・誤動作の実態を見極め、少しずつ修正を加えていくものである。バックフィットはそのためのものである。その結果、本来単純なメカニズムのはずの、核分裂の熱で湯をわかして発電する軽水炉がより一層複雑なシステムとなってしまった。それゆえ事故の原因は多様である。『アンナ・カレーニナ』の冒頭の有名なくだりにならえば、定常運転中の原発は皆似たようなものだが、原発事故はそれぞれ事故原因が違うということだ。だから事故に学ばなければ、安全な技術を築くことはできない。日本は原発の巨大化がはじまった70年代から、地道な技術改良をしてこなかったのだ。