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「絵筆のナショナリズム」 柴崎信三


本書はジュンク堂札幌店の「『戦争と美術』フェア」で「書痴、戦時下の美術書を読む」と共に購入した。藤田嗣治と横山大観を軸とした美術におけるナショナリズム論というか天皇制論。どちらかというと藤田嗣治が主という感じ。

藤田嗣治の戦争画「アッツ島玉砕」を東京国立近代美術館で観たとき、とても“レオナール・フジタ”の作品とは思えないような陰惨な絵画だった。同じ展示室には同時期に描かれた岡本太郎の絵画があり、対照的な色彩に驚いた記憶がある。1943年9月東京府美術館で開催された「国民総力決戦美術展」に「アッツ島玉砕」が展示された。この時、この大作の横に画家自身がたち、見学者が賽銭箱に賽銭を入れると画家が丁寧にお辞儀したという。「アッツ島玉砕」を観ても、戦意高揚や国威発揚にはならないと思うが、実際作品が完成した時、陸軍の担当者が難色を示した。

欧州で喝采を浴びた藤田に対する日本国内の評価は厳しかった。1940年に再びパリから帰国した藤田はトレードマークのおかっぱ頭を丸坊主にした。その後、「愛国の画家」として活躍し、「帝国芸術院会員」に推挙され、ようやく日本画壇の巨匠として認められる。藤田は1943年には東南アジアから満州を巡って戦争画を描く。1944年サイパン島集団自決に取材した「サイパン島同胞臣節を全うす」には、宗教画を思わせるような嘆きと鎮魂の図像として意図が読み取れると著者は述べている。戦争末期には、藤田が描いた戦争画が各地を巡回したとき、絵画の前で両手を合わせて祈り拝んでいる老いた人びとの姿が見られたという。

「彩管報国」のもう一人の指導者だった横山大観は、1940年「横山大観紀元二千六百年奉祝記念展」を開く。大観が出品したのは、「山に因む十題」・「海に因む十題」の連作20点だった。「山に因む十題」は主題が全て富士山だった。「日本人の精神的な象徴として、総力戦体制下の国民感情を統合する図像的役割を果たした『霊峰』を日本画壇の巨匠が主題を選び、国家的な展観の場に出品して世論の大きな喝采を得た」という。これらの20点の作品は破格な価格で軍需産業関係者に買い上げられた。大観はこの売り上げで戦闘機4機を陸軍に献納した。この20点は「気韻生動」美学の到達点として大観の傑作といわれている。

写実への没入が対象から生命を奪うという近代絵画への批判であり、西洋画に対する日本画の優位を説くこの時代の画論の一類型というべきだろう。高邁な感情を指す「気韻」とは抽象的で主観的な概念である。それゆえに、開戦へ向かう高揚したナショナリズムのもとの国民感情と共鳴して、熱狂を生み出す土壌につながりやすい。「気韻生動」という大観の美学には、そうした戦時のトリッキーな心理構造が隠されていることに留意する必要がある。
「愛国」へ向けた画家の一途な情念で「気韻」が埋め尽くされ、「写実」が省みられなければ、作品はあからさまな戦争プロパガンダのポスターに限りなく近づく。同じ年の「紀元二千六百年奉祝美術展覧会」に出品された『日出処日本』のように、戦時の大観にはそんな空疎な大言壮語に似た作品が少なくない。心の内側から人の情念に働きかける「気韻生動」と、サーベルを下げた軍人の号令のような「プロパガンダ」とに作品を隔てるものは、何だったろうか。

敗戦後、GHQは本人を呼び出した尋問の結果、横山大観の戦犯容疑を不問とした。この尋問の後、大観は担当米国将校を築地の料亭に招いて歓待している。大観の弟子堅山南風は、「先生はもう、大東亜戦争が始まったとき、すぐいわれた。もう君、これは駄目だ。東京も焼野原になるよ」と証言している。

「正気放光」や「神州不滅」の成就を当初から疑いながら、率先して「聖戦」の旗を振って国民精神の動員に奔走し、惨めな敗北で祖国が占領下に置かれると、手のひらを返すように、今度は保身のためにかつての敵国に媚態の限りを尽くす-。そうであれば「もののふ」の精神とかけ離れた敗戦直後の大観の行動は、率直にみて醜態と呼ぶべきである。

藤田嗣治は、戦後日本美術会から「戦犯画家」の代表として責任を取るように要請された。結局GHQは画家を戦犯として公職追放することはなかった。「戦犯画家」は杞憂に終わったが、1949年藤田はアメリカに向かった。1950年、藤田は10年ぶりにパリへ戻る。そこで待っていたのは「裏切り者」を取材しようとした多数の報道陣だった。駅で騒動になり「袋だたき」にされそうになった藤田は、パリを離れボルドーの知人宅に身を寄せた。1955年藤田はフランス国籍を取得する。4年後カトリックに改宗し、“レオナール・フジタ”の洗礼名を受けた。

「乳白色の肌」の成功が、日本と西欧を結ぶ「寵愛」と「媚態」の空間に響き合ったジャポニズムの実りだとすれば、のちの藤田嗣治の「転向」と「追放」、そして作品の「封印」は、戦争という陰画によるその暗転であろう。
一方、岡倉天心の「アジアは一つ」の理想に結ばれて、富士山や太平洋の荒波を通して「屹立する日本」を描きつづきけた横山大観は、藤田と同じように、戦時期に総力戦体制のもとで国家による戦争宣伝の指導的立場に立ちながら、「国民画家」としての大衆的共感と人気を戦後も持続させた。
両者をつないだ“日本”という表象には、「天皇」を頂いたこの国固有の伝統文化の構造が組み込まれている。この屈折した美のメカニズムの故郷を、理想化された過去に失われたものを取り戻そうとする「ロマン主義」の精神に求めるのであれば、「天皇」という存在こそ、国家と民族をつなぐ、歴史の浪漫の水脈に生き続ける“美”の媒介者だということができる。