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「ゴヤⅠ スペイン・光と影」 堀田善衛


本書は、朝日ジャーナルで連載された後単行本化されたゴヤに関する長編評論。管理人は単行本で読もうとして途中で挫折してしまった。所有していた単行本はすでに売ってしまったので、今回は文庫本で再チャレンジ(単行本は絶版)。文庫本で一冊500ページ近くあり、全4巻なのでいつ全巻読み終えるかわからない。そのため1巻読み終わるごとに備忘録を記すことに。

「ゴヤⅠ スペイン・光と影」はゴヤの40歳までを取り上げている。ゴヤは82歳で亡くなっているので、第1巻で生涯の半分近くを描かれている。といってもゴヤの若い頃の資料が乏しく調べようがないといったところ。本書でも半分近くがゴヤというよりスペインの歴史や風土の記述になっている。以前読んだときは、スペインの地名になじみがなかったけれども、リーガエスパニョールの試合を見るようになってだいぶ親しみを覚えるようになった。ちなみにレアル・サラゴサは現在2部に所属している。

ゴヤは1746年3月30日サラゴサのフエンデトードス村生まれ。ゴヤの正式名はフランシスコ・デ・ゴヤ・イ・ルシエンテス(Francisco de Goya y Lucientes)。ゴヤは10代前半画塾に通っていたが、天才的資質をすでに発揮していたとはいえなかった。マドリードやローマへ行ってみたものもサラゴサに戻ることになる。コンクールに3回応募して全て落選していた。大きなコンクールはいまでも実力だけで決まらないことが多々あるけれども、ゴヤが入選しなかったのは意外だった。

性懲りもなく応募をして、失敗をする。
自己の内部に、まだ無意識のままで、どす黒く、黒々と存在し、蟠踞している自己自らの才能を、彼は自ら否認をしなければならないのである。それをおさえつけて、いかなる出口もないほどに蓋をしてしまわなければならないのである。扼殺をしてしまわなければならない。
そこに二つの逆立ちしたテーゼが成立するだろう。
人は、早く自らの資質を発見し、育て、磨きをかけることによって発展し、自らを見出す。
人は、自らの資質を発見せず、逆におさえつけて蓋をして、もっぱら時代の好尚にあわせるように出来るだけ努力をする。
にもかかわらず、あたかも火山が爆発をするかのようにして、地中深くから資質を爆発的に噴出させる。

ゴヤは機会をつかむためあらゆることをした。サラゴサのエル・ピラール大聖堂の丸天井にフレスコ画を描く仕事を得るため、競争相手より画料を相当安く提案したらしい。次にゴヤはアカデミー会員であるフランシコ・バイユーの妹との結婚をはたす。この結婚も「理由のある結婚」だったらしい。ゴヤの妻ホセファーについては一枚の肖像画と一枚のデッサン以外資料がないという。著者は一枚の肖像画と一枚のデッサンだけで充分だという。画家の描いたもののなかに、すべてががある筈である。

要は、見ること、である。
美術とは何か。美術とは見ることに尽きる。そのはじめもおわりも、見ることだけである。それだけしかない。
見るとは、しかし、いったい何を意味するか。
見ているうちに、われわれのなかで何かが、すなわち精神が作業を開始して、われわれ自身に告げてくれるものを知ること、それが見るということの全部である。すなわち、われわれが見る対象によって、判断され、批評され、裁かれているのは、われわれ自身にほかならない。従って時には見ることに耐えるという、一種異様な苦痛をしのばねばならぬことも、事実として、あるだろう。
一枚の絵を前にして、ある人は何物をも見ないかもしれず、またある人はすべてを見るかもしれない。

この後、ゴヤは「立身出世」し晴れてアカデミー会員となり、宮廷や代表的な教会の仕事をすることになる。ところが40歳となったゴヤは画室に閉じこもり、幾日も出て来ず「絵を描くことを嫌がる」ことになる。