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「福沢諭吉の『学問のすゝめ』」 橋本治


福沢諭吉関連の本を読むのは、丸山真男さんの「『文明論之概略』を読む」以来。その時『文明論之概略』は何だか難しいと思い、福沢諭吉の本を敬遠してきた。『学問のすゝめ』は「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」であまりにも有名すぎて読んだことがなかった。橋本治さんの評論ということで本書を読んでみた。この本の最後に『学問のすゝめ』の初編が転載されている。

本書は『学問のすゝめ』全17編を評論しているわけではなく、初編を中心に第7編までを取り扱っている。著者は価値の定まった有名なものが本当はどんなものなのかを知りたいという衝動があり、雑誌の新連載に編集者から『学問のすゝめ』を提案され本書が書かれた。『学問のすゝめ』が明治時代に読まれ、太平洋戦争後に再び読まれたのは、日本人が新しい政治を必要とする時に読まれる本だった為。

いまなぜ著者が『学問のすゝめ』について書くのかを考えてみると今の政治状況に対する危惧からではないだろうか。『学問のすゝめ』をだしにして「現代日本」を批判するといったところ。最近の民主主義について著者は次のように述べている。

最近だと、「民主主義は限界に来た」とか「民主主義はだめだ、もう終わってる」とか、あるいは「民主主義がいいなんて幻想だ」とか「民主主義は初めっからろくなもんじゃない」なんてことが言われたりします。「そんなの知らない」と言っても、知らないところでは言われています。民主主義がなぜだめかというと理由は簡単で「民主主義はバカばっかり」になってしまうからです。
民主主義は誰でも平等で、一人一票の参政権、あるいは発言権があるということになっていますが、そこのところは平等に「みんな同じ」ではあっても、その「みんな」の頭の中身は「みんな同じ」ではありません。はっきり言って、頭のいい人よりバカの方が多いのですね。つまり、民主主義を成り立たせる人間の多数派はバカで、なにも分からないバカが意志決定のイニシアティブを握ってしまうことが多々ある、もしくはバカに媚びたような決定がなされてしまう-だから「だめだ」というわけです。「民主主義はバカばっかり」を漢字四文字で表すと「衆愚政治」で、その状態は既に民主政治発祥の地である古代ギリシアのアテネで言われています。人間の多数派がバカである以上、民主主義が「バカばっかり」になってしまうのは仕方がないことですが、一体その状態はどうすれば打開出来るのでしょうか?
問題は「バカばっかり」というところにあって、そのことははっきりしているのだから、打開策は簡単に見つかります。多数派のバカが「バカ」から抜け出せばいいのです。つまり、バカから抜け出すための啓蒙をすればいいのです。

『学問のすゝめ』のなかで「バカ嫌い」の福沢諭吉は「啓蒙」を続けて「勉強しろ」と言う。このあたりは、福沢諭吉の考えなのか著者の考えなのかよくわからないところがある。『学問のすゝめ』は「勉強の必要」を説いて、読者に「自分で勉強しなさい」と言って終わる本だと著者は述べている。「啓蒙」によって、「バカ」を減らすと言ったら現代のSNSなら炎上しそうな感じがするが。

福沢諭吉は、「政府はまだ存在していない」という前提で『学問のすゝめ』を書いています。ということは、「明治の近代」になってから書かれた『学問のすゝめ』は、「まだ近代じゃない。近代である要素なんかまだなにもない」と言っているのに等しいのです。
『学問のすゝめ』を読んで、そこでドキッとするような意味を発見したなら、その時『学問のすゝめ』を読む人は、『学問のすゝめ』の向こうに、「まだ近代になっていない現在」を発見してしまうのです。いくら科学が発達したって、技術が進歩して高層ビルが立ち並んだって、人の頭の中は「相変わらず」かもしれません。だからこそ『学問のすゝめ』は、それを読む人の前に、「もう近代だと思ってるかもしれないけど、まだ近代じゃないかもしれない。そう考えて作ろうとしないと、近代はやって来ないんだよ」という、現在進行形の姿を現すのです。