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「憂鬱なる漱石」 小林敏明


今年が夏目漱石没後100年で、来年が生誕150年ということで漱石関連本が多く出版されている。岩波書店は第何次かわからないけれども「定本漱石全集」を出版中。新書版の全集にしてくれたなら購入したかもしれなかったのに残念だ。没後100年経っても新しい本が出版されるのは、漱石の作品がそれだけ優れているからだろう。管理人が漱石の作品を読んだのは高校生から大学生の頃で、『三四郎』以降の小説は繰り返し読んだ。『文学論』や『文学評論』などは読んでもちっとも面白くなかったが。

本書は漱石の『三四郎』以降の作品を取り上げている。著者が漱石を扱うのは意外の感じがした。書名から漱石の精神病跡本かと思ってしまったが、読んでみるとそうではなかった。病理学的な記述が結構多いのは、漱石の思想面を扱うのに必要なためなのだろうと思う。漱石の家族の証言などと小宮豊隆らの弟子たちの想い出とは印象が大分異なる。漱石の苛立ちというか神経衰弱の原因はよく分からない。『行人』の一郎や『道草』の健三の苦悩は、漱石の苦悩に重なるものだろう。『行人』の一郎の行動は常軌を逸するものあり、こんなに悩んでいたら胃に穴があくのも当然かと思われる。存在の苦悩といった問題は、考えても解がみつかるわけではない。普通の人はそんなことを深く気に掛けることもないから生活ができるのだろう。

久しぶりに読んだ漱石の評論は面白かった。来年はまた漱石に関わる本を読んでみようかと思った。

漱石にとって「個人」とか「個性」というのは文明の必然的な趨勢であり、もはやこれを否定することなどできない。だが、この「個人」は、ひとつ活かし方を間違えると危険なものに転化する。その両刃の剣となっているのは、それとともに与えられる「自由」の概念である。自由だからといって何でも自分の好き放題にしてしまうと、逆にそのとばっちりで不自由を強いられる人間が生まれてしまうからである(このことは今日の「新自由主義」とて同じことである)。漱石やカントの思い浮かべる自由な個人とは、限られた人間だけではなく、全員に当てはまるものでなければならない。つまりあくまで平等が原則なのだが、この原則を貫くことは容易ではない。なぜなら、自由そのもののなかに、その平等の原則を妨げるような要因が含まれてしまっているからである。権力や金力はまさにその妨げの現れにほかならない。この矛盾をはらんだ自由な個人をどのようにコントロールしながら実現していくのか、その点において人類はまだ正しい答えを見つけ出しているわけではない。だから「第二の仏蘭西革命」「個人の革命」が起きなければならないのだが、その帰趨ははっきりせず、文明は危険な道を歩いているというのが漱石の覚めた文明観である。