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続「十六世紀文化革命」 山本義隆

「十六世紀文化革命」のあとがきは10頁以上ある異例のものだった。このあとがきで著者は科学と技術について持論を展開している。著者が「磁力と重力の発見」や「十六世紀文化革命」を書いた理由に、なぜ近代科学技術が西欧にのみ誕生したのかという問題がある。キリスト教が支配していた中世ヨーロッパでは見失われていた古代ギリシャの科学や哲学はイスラム社会で保存されており、技術面でもイスラム社会のほうが進んでいた。しかし12世紀以降西ヨーロッパには広い意味での自然科学が誕生したのに対して、イスラム社会では学問への関心が衰退し位置づけが逆転する。十六世紀の職人や技術者は自然から学び、人間の技術は自然に及ばないと考えていた。それに対して十七世紀科学革命の推進者たちには、「自然を支配し、管理し、そして人間の生活のために利用する」という考え方が生じてきた。

物理学の法則は局所的であり、実験も可能な限り理想的な条件で行われる。なぜ重力が働くのかというような「形而上学的」な問題には目をつぶり、自然の数学的関係性に注目することによって法則を確立していく。そのような物理学に基づく核兵器は、「100パーセント物理学者の頭脳のみから理論的に生み出された」ものである。発電所の原子炉は原子爆弾(核分裂爆弾)用プルトニウムの生成課程で使用されたものの転用である。元上智大学長の故柳瀬睦男さんがカトリック神父になったきっかけは、自分が学んでいた核物理学が広島・長崎の悲劇を生んだことだったと物理学会の講演で述べていた。

自然を支配し人間に役立てるという考え方は未だに根強い。環境問題でも人間が環境をコントロールできるという考えが強いように思われる。核廃棄物についてもいつかは技術が進歩し解決可能だと主張するひとも多い。そのいつかというのが何百年何千年何万年先になるのか今のところ誰にもわからない。戦艦ヤマトが蘇り、放射性物質除去装置をもらいにイスカンダルへ行ける日が来るかもしれないが。白人至上主義やイスラム蔑視は、近代科学技術が西欧にのみ誕生したことと無関係ではないと思われる。自然に対する畏怖の念を忘れないようにしたい。

放射性原子核の半減期を短縮させるような技術が見出されるとはとても考えにくいが、百歩ゆずって将来的にそのような解決策が見出されると仮定しても、それとてコストとエネルギーを要することである。とすれば、いずれにせよ、現代人が受益したエネルギー使用の後始末を何世代も後の子孫に押し付けることになり、それは子孫に対する背信であろう。
問題の根っこをたどれば、十六世紀までの職人たちがもっていた自然に対する畏怖の念を十七世紀のエリート科学者が捨て去り、人間の技術が自然と対等、ないし自然を上回ると過信したところにあるのではないだろうか。その点では、技術が自然に手を加えるにあたって、優れた職人技術者が経験的に身につけていた人間のキャパシティーの許容範囲についての見極めは意外と正確であり、その感性が暴走を抑止することになるかもしれない、と言いたい処である。しかしナノ・テクノロジーや遺伝子工学の現状を見ると、現実はそのような素朴な信頼を追い越すまでに進みすぎているようである。
さしあたっての抜本的な解決策は見当たらないが、十七世紀科学革命が生み出した「科学技術」の無制的な成長を見直すべき時代にきていることは確かである。解決はやはり「科学」にしか求められないにせよ、そのときには「科学」自体が変化していなければならないであろう。それがどういうものかはいまだ不明確であるが、科学と技術に再検討を迫るいま一度の文化革命が求められているように思われる。