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「狂うひと」 梯久美子


手に取った感じでは、本書が660頁もあるように思えない。ページ数も凄いが、内容がもっと重い。島尾敏雄の小説「死の棘」を学生の頃読んで、修羅場の連続で読むのが嫌になったことを覚えている。「死の棘」に描かれている事柄が実際にあったことなのかどうかを、著者は新資料も交えて追っていく。夫の日記にあった十七文字を読んで、妻のミホは精神を破綻していく。この場面は、本書で何回も取り上げられているが、実際にこんなことがあり得るのかと管理人は小説「死の棘」を読んだとき思った。愛人とミホとが取っ組み合いをする場面もほぼ日記にあるとおりで驚く。

妻の叱責にたいして、自らの死をもって応じようする夫。本書をを読んでいると夫である敏雄のほうがより狂気じみているように思われる。島尾敏雄は記録好きで、日記や写真を多数残している。小説も一つの記録として書いていたふしがあり、日記に書いたことをそのまま「死の棘」に使っている箇所が多い。ミホは晩年、「死の棘」はあくまで創作であると述べていたそうだ。しかしながら、ミホが編纂した『「死の棘」日記』では、日記の内容を変えている箇所があり、「死の棘」で持たれていた良いほうのイメージを壊さないようにしていたようだ。

島尾夫妻は、精神病院を退院した後、奄美大島へ移住する。移住した後も、ミホの精神状態がすぐに好転したわけではなかった。移住以来初めてミホの実家がある加計呂麻島に訪れた後、ミホの病的な反応は収まっていった。加計呂麻島で一泊して、港から船に乗ったときミホは「私ははっきりと過去と訣別を告げることができました」と後に書いている。

ミホの発作は文学仲間の女性との情事を知るという形でミホに訪れた「戦後」に対する拒否反応でもあった。戦時下での命がけの恋の続きのつもりで結婚生活を始めたミホだったが、戦後の島尾はそんな妻を置き去りにして文学にのめり込んだ。ミホだけがひとり戦時下の時間にとどまっていたのだ。
「現在の会」の同人だった川瀬千佳子は、たくましく頼りがいのある隊長を不機嫌で生活力のないインテリに変質させ、家庭から引き離したもの=文学の象徴でもあった。彼女の登場によって、ミホは戦時下の時間から決定的に引き剥がされ、「戦後」という時代に直面させられることになった。それを拒もうとするエネルギーが、狂乱の発作としてあらわれたと考えれば、「戦後」を受け入れることでしかミホの発作は終わらないことになる。