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「カント 美と倫理とのはざまで」 熊野純彦


本書は文芸誌「群像」に連載された評論をまとめたもの。なぜ哲学の専門家が文芸誌にカント関連の評論を連載したのかはわからない。文芸評論家がカントを取り上げるのとは少し違う感じがする。といっても「群像」は「死霊九章」が掲載されて以来購入していない。著者があとがきで述べているように文学部「冬の時代」で、岩波書店の「文学」も休刊となり、文芸誌も何かしないと生き残れないということか。

カントの三大批判書で、管理人が読んだことがあるのは「純粋理性批判」だけ。「判断力批判」は途中で挫折して、本棚のこやしとなっている。外国語ができない管理人がわざわざ翻訳で哲学書を読むのは、「生きる意味はなんだ」「世界はどうなっているんだ」「美ってなんだ」とかの疑問への答えを求めてだと思う。しかしながら、どんな哲学書を読んでも明確な解答があるわけではない。本書のまえがきに「哲学的思考は回避し、迂回するものだから」とあり、「そんなもんなんだ」と管理人は思った。

本書の内容は、管理人にとって難しく、なんだかよくわからなかった。「純粋理性批判」の解説書はわかったような気がするが、「判断力批判」のほうはさっぱりだ。「美と崇高」の批判において、最終的に「神」の存在を要請されても、一周して元の木阿弥というような感じがするけど。ちょっと長いが本書の最後の部分を引用する。わかるひとにはわかるんだろうなあ。

自然の主観的な合目的性、その美を、反省的判断力に固有な限界を超えて探究することはできない。それは超感性的な次元にかかわり、したがって理論的な考察のいっさいを越えているからである。とはいえ自然は、崇高なもののあらわれにおいて、さらにまた自然のなかで美しいものの普遍的な妥当根拠を問い、美にかかわるアンチノミーを解消する、その演繹にあって、超感性的な次元の存在を仄かに暗示している。自然の意図は、その匿名の技術の影に、みずからを隠している。とはいえ見えるものの陰に、見えないものについてその「痕跡」が存在するのだ。自然はいわば人間に「目くばせ」を送り、自然は人間の超感性的次元に対して美しく、その叡知的な水準にとって崇高なものとなることで、人間のためにこそみずからを荘厳しているかのように存在していのである。
判断力に対しては、自然そのものが「技術的なもの、つまりその産物において合目的的なものとして」あらわれる。自然がしめす美は、その形式的合目的性のあらわれである。これに対して自然が一箇の目的の体系として立ちあらわれるとするなら、その合目的性は客観的なものとなる。目的の一体系である自然は、とはいえ自然そのものを超えて、世界創造の究極的目的を指ししめす。究極的目的とは、倫理的主体であり、ヌーメノンであるかぎりでの人間それ自身にほかならない。ひとり「道徳性の主体であるかぎりでの人間」のみが、無条件的な存在でありうるからである。-要するにこうである。反省的な判断力に対し立ちあらわれるかぎりでの自然の目的論的構造が、人間の生と存在に対してその意味を保証している。生の意味が不在であるところでは、倫理もやがて空語となることだろう。
かくてこの生は生きるにあたいし、世界は人間にとって意味ある生を可能とするしかたで組みたてられる。そもそも「合目的性」とは「客観的には偶然的であるとはいえ、主観(私たちの認識能力にとって)は必然的な、自然の合法則性」のことであった。独断を回避し結論を迂回しながらカントが最後の批判書で辿りついたこの回答を、佐藤康邦にならって、人間は世界のなかの「異邦人」ではない、と取りまとめておいてよいだろう。