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「闘う文豪とナチス・ドイツ」 池内紀


本書は、紀伊國屋書店の季刊誌『scripta』の2009年冬号から2015年夏号にかけて掲載された「トーマス・マン日記」をめぐるエッセイを纏めたもの。2016年に紀伊國屋書店の「トーマス・マン日記全10巻」が完結した。その編集者に「トーマス・マン日記」の応援役を依頼されて書いたエッセイが本書のきっかけだったそうだ。「トーマス・マン日記」全巻を読むのはちょっとしんどいので、本書で日記のさわりを感じようとした次第。

トーマス・マンは長く日記を書いており、古い日記は亡命12年後にマン自身の手で焼却された。公刊されている新しい日記も死後20年間開封を禁じた。新しい日記は1933年3月15日から始まっている。1933年1月ナチ党党首ヒトラーが政権につく。同年2月トーマス・マンはオランダ・フランスでの講演旅行中、政府から帰国差し止めの通告を受ける。このときからトーマス・マンの亡命生活が始まる。その後トーマス・マンはドイツに住むことはなかった。

亡命先からドイツに向けて発言を続けたトーマス・マンは、ナチ政権崩壊後の祖国ドイツから起こるべき声が聞こえず苛立っていた。逆にドイツからトーマス・マンに対して不快な話が聞こえてきた。トーマス・マンはよその国にいて苦しみも何も知らないと。

マンは性急で苛立っている。ナチス思想を否定するどんな声も聞かれない。ヒトラーによる政権掌握に手をかし、九〇パーセントをこえる国民投票で歓呼し、集団殺戮、破局、すべてを容認した。その罪を認めるどんな言葉も語られない。
ファシズム支配の終焉、囚われ状態からの解放と新しい始まりを迎えて、日記の書き手は苦い思いで書きとめなくてはならなかった。何もかもが過ぎ去ったとき、どうしてあんなことを許したのかと、他人ごとのようにして人は不思議に思っている。個人はいかに無力で良心について考えるのがいかに難しいことであるか。ある体制を容認し、むしろ有利にはかるのは「第一級の犯罪行為」だというのに、それを認めるどのような言葉も聞こえてこないのである。

1949年トーマス・マンの長男クラウス・マンが自殺する。クラウスは「偉大な男は息子など持つべきではないのである」というメモをのこしているそうだ。東西冷戦が始まり、自由の国アメリカでもマッカーシー上院議員による「赤狩り」が始まる。トーマス・マンの「親共産主義の暴露」を画策する雑誌記事が掲載される。そんな時、核兵器の技術情報をソ連に渡したという「ローゼンバーグ事件」が起きる。1952年9月トーマス・マンはスイス・チューリヒに渡る。再度の亡命だった。晩年のトーマス・マンは数かぎりない栄誉につつまれる。果てしなく続く祝福に答えるだけの日々が続き、創作の仕事が減っていく。「読書、思い悩み、疲労、あらゆる創作力がなくなったとみえる自分の状態に苦しむ」とマンは日記に書いている。晩年のマンの愛用語は「そしてわが末路は絶望」だったそうだ。

人は老いる。老いてくると、どうなるか。マンの同時代人ケストナーは『人生処方詩集』のなかで、これ以上ないほど簡明に述べていた。「老いた人はみにくい」
ふつう、それはかまわない。老いとともに人はまた「人生処方」の知恵をつけ、生きものの宿命とほどよくおりあいをつけていく。トーマス・マンはおりあいを拒んだ。老いてはならず、みにくくなってもならない。たえず第一線にいて、一生かけて退くことのできないペンの生活を送ってきた。老いてなお老いぬ思いの人は小説の執筆を放棄して、より小まわりのきく雑文に代理をさせることができない。それは許せないことだった。生涯を通じて言葉のワザにみがきをかけてきたというのに、老いが容赦なく邪魔立てをする。言葉が眠りこんでいく。
ハツラツとして外に開いていた精神が急速に閉ざされていく。闇は深いが、この理性の人は諦念といった東洋的な心情から遠いのだ。最晩年の『トーマス・マン日記』は二つとないドキュメントだろう。運命的な老いの軌跡が、妥協せず、諦念とも遠い宙吊り状態のまま、張りつめた思いをもって書きとめてある。
「横になったまま溲瓶へ放尿をするさいベットやシーツが汚れた。すべて八十歳になるまで一度も経験のないことだ。不快きわまる。恥ずかしいことだ」(十九五五年七月二十二日)
最後のコーナーをまわったこの身が堪えなくてはならない屈辱。期せずしてマンの偉大さが読みとれるのだ。最後まで精神の有効性をゆずらず、末期の目にうつる惨憺たる自分の記述にいささかもたじろなかった。