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「脱原発の哲学」 佐藤嘉幸 田口卓臣

脱原発の哲学

書名に哲学とあるが、哲学書のような難解さは本書にはない。具体的な事柄をあつかっているため、抽象的な議論ばかりになることがない。「哲学」というよりは「脱原発への指針」という感じがした。管理人は足尾鉱毒事件の章を一番興味深く読んだ。というのはいままで足尾鉱毒事件についてあまり知ろうしなかったためだが。「原発」や「公害」について懐かしい名前や著作がでてきた。「原発ジプシー」や「「闇に消される原発被曝者」などは福島第一原発事故後に復刊していたことをあらためて知った。岩波新書の「プルトニウムの恐怖」や「原子力発電」が復刊したのは覚えていたけれども。

日本の原子力発電所は、発電している場所と電力を消費している場所が離れている。しかも海沿いの人口の少ない町がほとんど。海沿いにあるのは二次冷却水として海水を使うため。過疎化が進む自治体にとって、原子力発電所を誘致することで電源三法により安定的な収入が確保できる。しかしながら、原子力発電所建設後はその収入が漸減するため、新たな原子力発電所の建設を誘致する。その結果、福島や敦賀には「原発銀座」が生まれてきた。発電する過疎地と電力消費する大都市圏という構図は、足尾鉱毒事件などの公害と同様である。古河鉱業の創業者古河市兵衛は足尾の住民を「山中の土民」と呼んでいたのは、学校や病院、娯楽施設を作ってやっているのだから「山中の土民」は鉱毒の被害は多少とも我慢するのがあたりまえという考えに繋がっている。この中央が「金」によって地方を服従させる「飴と鞭」政策の構図を本書では「管理された民主主義」と呼んでいる。

福島第一原発周辺の地域では、除染後避難区域を解除し、住民の帰還を促し、避難を続ける住民に対する保証の打ち切りを政府は始めている。除染は山間部で行われておらず、除染した廃棄物は周辺地域に集められそのままの状態で放置されている。福島でひらかれた「リスク・コミュニケーション」の専門家会議では、「私たちはコスト=ベネフィットの賭けに勝たねばなりません」、「住民に対し、彼らの日常の一部をなす被曝ということの新たな要素を受け入れてもらう」、「個別的な手段によるチェルノブイリのような手本に基づいた避難というプロセスをやめることで、人々に安心を取り戻し、汚染された環境のなかで日常生活の自己管理をできるようにする」という意見がでたそうだ。

放射性廃棄物の処理について、根本的な手立てはいまのところない。福島第一原発の原子炉の底に溜まっている燃料デブリを取り出しても何処で処理し保管するかの見通しは立っていない。本書の最後に著者は次のように述べている。

本書において何度も指摘してきたように、原発とは単なるエネルギー生産のシステムではなく、核兵器の材料であるプルトニウムの生産を帰結するという点で核兵器生産と切り離すことができず、同時に、工業=軍事立国という国家と資本の論理に依拠した中央集権的統治、すなわち「管理された民主主義」と密接に結びついている。従って、私たちの観点から重要なのは、(一)工業=軍事立国という国家と資本の論理に依拠した中央集権的統治を放棄し、脱原発と分権的なエネルギー生産システムを確立することによって、中央集権的政治=社会システム(「原子力国家」、あるいは「管理された民主主義」)から分権的政治=社会システムへと移行すること、(二)市民と基礎自治体が協働して市民発電所を運営し、地域外の大企業に吸い上げられていた資金を地域内で循環させることによって、地方と中央の間の非対称的で逆転不可能な権力関係、すなわち構造的差別を打破すること、(三)国民投票や、官僚機構の市民委員会によるチェック、コントロールのような、より直接民主主義的な要素を取り込んだ新しい形の民主主義、すなわち根源的民主主義を確立すること、である。