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「革命伝説 大逆事件3」 神崎清


第3巻は信州明科爆裂弾事件から大逆事件の公判終了までを取り上げている。幸徳秋水は菅野スガとの関係で社会主義の仲間が離れていき、官憲の監視も厳しく孤立無援の状態だった。そのような幸徳秋水を小泉三申が『通俗日本戦国史』編集名目で湯河原温泉の旅館に菅野スガと共に「亡命」させた。

信州明科爆裂弾事件は、宮下太吉の職場の同僚による通報が発端となった。宮下太吉がなぜ同僚二人に天皇暗殺計画を話したり、薬品や部品を預けたりしたのか。迂闊と言えば迂闊な行為だった。警察に密告した新田融は爆弾に使うブリキ缶を製作したとして懲役11年の判決を下される。もう一人の密告者清水太市郎は爆裂弾の材料を事情を知りながら宮下から預かったが、爆発物取締法違反の隠匿幇助罪は適用されなかった。宮下太吉が処刑された後、スパイの評判をたてられた清水太市郎は堺利彦宅を訪れ土下座して弁解したそうだ。

1910年5月25日に宮下太吉、新村忠雄、新村善兵衛、新田融が逮捕連行され、同年6月1日湯河原温泉で幸徳秋水が逮捕される。その後、芋づる式に紀州、熊本、大阪、神戸と事件は拡大し、計26名が起訴された。「暴力革命」「決死の士」「11月共同謀議」をキーワードに、事件は爆発物取締法違反から刑法七十三条案件に変わっていった。第一回公判は1910年12月10日で、人定尋問の後裁判は非公開となる。その後の公判は全て非公開。同年12月29日の第十六回公判で結審。被告の供述は比較的自由に話せたようだ。

被告の供述を読む限り、共謀といえそうなのは、宮下太吉、新村忠雄、菅野スガの三人で、強いて古河力作を含めて四人か。宮下太吉は古河力作に会ったことがなかった。天皇暗殺計画といっても、具体的な日時や場所は決まっていなかった。幸徳秋水は行動というよりも理論だったし、病弱のなため実働部隊に加わることは考えにくい。茶話会や歓迎会での与太話が「共同謀議」とするような強引な検事側の姿勢が見られる。山県有朋が「社会破壊主義者論」で「其ノ全ク改悛ノ見込ミナキ者ニ至テハ、之ヲ絶滅シテ遺憾ナキヲ期スヘシ」と述べているように初めから社会主義者を排除することを第一にして裁判が行われた。

横田大審院長から年内結審の方針堅持を命令されていたと思われる鶴裁判長は、一審にして終審、ほかに救済の道がないという大逆事件の裁判を、わずか十九日間、十六回の審理でバタバタかたづけてしまった。形式はともかく、事実上の審理不足といわなくてはならない。事実の認定をあやまり、真実の発見に失敗して、とりかえしのつかない誤判をうんだこの鶴裁判長の非行性は、弁護士今村力三郎が、後年稿本『芻言』を書いて大逆事件の裁判を回顧したとき「予は今日至るも該判決に心服するものに非ず。殊に裁判所が審理を急ぐこと奔馬の如く、一の証人すら之を許さざりしは、予の最も遺憾としたる所なり」というみじかい表現のなかで、きびしく糾弾している。
戦後、専修大学総長になった今村力三郎は、筆者によせた手紙(昭和二五年一月三〇日)に、「僕の遺憾は裁判所が皇室の鼻息を窺った事と弁護人の無力であった二点です」と書いて、死ぬまで残念がっていたのである。