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「金子文子」 山田昭次


本書と「何がわたしをこうさせたか」を一緒に購入して、金子文子について何も知らなかったので本書のほうを先に読んだ。書店で金子文子に関する評伝は本書以外に見つけられなかった。朴烈と同棲する前の金子文子の生い立ちは「何がわたしをこうさせたか」のほうで紹介しようと思っている。

金子文子は19歳のとき、朴烈と知り合い同棲する。1923年4月に朴烈と金子文子は不逞社を設立。同年9月1日の関東大震災後、朝鮮人暴動のデマにより朝鮮人が多数虐殺され、不逞社社員も「保護検束」で検挙される。10月には治安警察法違反容疑で朴烈と金子文子は起訴される。1924年予審訊問中に爆弾入手計画が発覚し、爆発物取締罰則違反で朴烈と金子文子は追起訴される。さらに予審判事が刑法七三条案件と判断した為、大審院管轄事件となった。1925年7月、検事総長は刑法七三条及び爆発物取締罰則違反で起訴。1926年3月23日朴烈と金子文子は婚姻届を出す。3月25日朴烈と文子に死刑判決が下る。4月5日恩赦により朴烈、金子文子は無期懲役に減刑。7月23日宇都宮刑務所栃木支所内で金子文子は縊死した。

朴烈と金子文子による「大逆事件」は、幸徳秋水らの「大逆事件」と同じく、具体的な皇室に対する爆弾テロの計画も無く、爆弾も入手できなかった。金子文子は爆弾入手計画さえも知らなかった。他の不逞社社員に罪が及ばないようにした朴烈と金子文子の予審訊問での供述が「大逆事件」を招く結果となった。死刑判決の直前に金子文子が朴烈と婚姻届をだしたのは、死刑執行後遺骨の引き取り手を考慮した結果だった。金子文子は実家とは絶縁状態であり、「朝鮮人」と結婚して、「大逆事件」を起こしたものが実家の墓に入ることは許されるはずがなかった。実際金子文子が自殺した後、彼女の遺骨は朴烈の兄朴庭植に引き取られた。金子文子は書簡で次のように述べている。

私は日本人ですけれ共、日本人が憎くて憎くて腹のたぎるのを覚えます。私がその時ただ目に反射されたただけの出来事は、大きな反抗の根となって私の心瞳に焼き付けられて居ります。私の在鮮中の見聞は、私をして朝鮮人のあらゆる、日本の帝国主義を向ふへ廻しての反抗運動に異常な同情を持たせました。私は上京すると間もなく、多くの朝鮮の社会主義者或は民族運動者と友人になりました。私は実際此の種の運動を他所事として手安く片付け去ることが出来ません。私は昨年の四月から朝鮮人のニヒリステックなアナルキスト(無政府主義者)と同棲して居ります。何時ぞやお送りした『現社会』は私共二人が主になってやってゐます。

金子文子の自殺に関連する資料は未だに閲覧できないらしい。金子文子の遺書もなく、自殺した日時も7月22日と23日と違った報道がされた。また予審判事が撮影した二人の写真やそれに纏わる怪文書など奇怪なことが多い。予審判事の部屋で被告の写真を撮影するというのは普通考えられないが。朴烈は後に転向し、戦後出獄する。朝鮮戦争中、北朝鮮に連行される。1974年北朝鮮で亡くなる。