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「余白の春」 瀬戸内寂聴


本書は時期でいうと、「美は乱調にあり」と「階調は偽りなり」との間で、菅野須賀子を描いた「遠い声」の次に書かれた伝記小説。執筆当時、朴烈は北朝鮮で存命中で、金子文子を知る人や親戚も幾人かいた。といっても当時朴烈は生存不明となっていた。あとがきによると、鶴見俊輔さんに菅野須賀子の次は金子文子を書きなさいとすすめられたそうだ。著者は本書を出版後出家している。

印象に残るのは、韓国の取材で金子文子が住んでいた芙江を訪れ、金子文子の墓がある朴烈の故郷を訪れた場面。金子文子の墓をつくったあと、憲兵によって墓参をとめられため、親族は何十年も墓を訪れることができなかった。山道を登り、やっとたどり着いた金子文子の墓は小さな土饅頭の盛り上がりで夏草が覆っていた。高い林の樹々が屏風のように墓をとりかこんでいた。不逞社の仲間だった陸洪均は、号泣しながら土饅頭に全身を投げかけ墓に抱きついた。著者は朴烈の甥になぜこんな山深い場所に墓を作ったのかを尋ねた。理由は風水説で占って定めたということだった。現在、その墓の場所には金子文子の記念碑めいた新しい墓が建っているそうだ。

文子は小さな躯に収めきれないほどの生命力をもてあまし、しかもその生命をいつでも白熱の炎をあげるまで完全燃焼させねば気がすまず、自分で自分をかりたてて、がむしゃらに勉強し、猛烈な知識欲を充たそうとしてきた。文子の短い生涯をふりかえると、文子にとって生きるとは、学ぶことと闘うことであった。自分に何の能力ない幼少の時から、文子は納得し難い自分の環境に対して心から抗いつづけている。男たちに無造作に身を投げだし、男たちを次々捨てていき、さして傷痕を残さないのも、彼等がすべて、文子よりはるかに生命力のボルテージが低く、文子に辛うじて官能の満足くらいしか与えることが出来なかったからではないだろうか。文子が本能的に需めていたのは、男によって与えられる官能の歓び程度ではなく、もっと自分の根底から自分を揺さぶり掴みとってくれる男の強烈な生命力、自分のおびただしい生命力に太刀打ち出来るボルテージの高い生命力そのものではなかっただろうか。
一見栄養失調らしい貧相な朴烈に一目逢って文子が惹きつけられたのは、朴烈の惨めたらしい外見の内につつまれた生命力の白熱の炎を、文子の心眼が映しとったからだろう。

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