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「鎖塚」 小池喜孝


本書は1973年現代史出版会から刊行され絶版にっていたが、岩波現代文庫の一冊として復刊した。網走・旭川を結ぶ国道の開削に囚人を使い、この工事で死亡した囚人の墓の上に鎖が残されてあった為、誰いうとなく「くさりづか」と呼ぶようになった。「赤毛のアン」の名付け親である著者が、なぜ北見で教鞭をとり北海道の民衆史を調べるようになったのか管理人はその理由を知らない。著者は「秩父事件」で検挙され、北海道の監獄へ送られた人びとを調べていて、その関連で囚人労働や「タコ部屋」、中国人・朝鮮人の強制労働を調べるようになったようだ。

北海道開拓のために必要な人員の確保は道内では難しかった。そのため伊藤博文は長期受刑員の労働力を北海道の開拓に使い、出獄後は人口の少ない北海道に住まわ自立更生させよと提案した。その提案を受け、まず明治14年樺戸集治監が建設された。樺戸の囚人は主に墾起開拓に使役された。明治15年空知集治監が建設され、幌内炭鉱で囚人は採炭労働を強いられた。明治18年にはアトサヌプリ硫黄山の採掘のため釧路集治監が建設された。明治23年網走道路のため網走外役所が設置された。北海道担当官金子堅太郎は囚人を安価低廉な労働力としてとらえ、たとえ死んだとしても監獄費の節約になると見なしていた。

過酷な囚人労働を廃止させる運動が樺戸集治監キリスト教教誨師原胤昭らによって起こった。アトサヌプリ硫黄山や幌内炭鉱では死者や負傷者が多発し、国会でも問題となった。初代釧路集治監典獄だった大井上輝前は囚人労働の廃止を決める。大井上典獄は原胤昭の人柄を見込んで釧路集治監に教誨師として迎えていた。内務省官僚や経営者から囚人労働存続を求める圧力がかかった。それにもかかわらず大井上は方針を変えなかった。その結果、囚人労働は廃止となったが、大井上は罷免された。大井上の後任には東京監獄の石沢典獄が就任した。石沢典獄は仏教派の教誨師を採用し主流とした。キリスト教教誨師たちは抗議したが受け入れられず一斉に辞職した。

経営者は囚人労働の廃止に伴い、安い労働力の確保が急務となった。東京や大阪では人夫募集屋が人を誘い北海道へ送った。何も知らずに来た人夫たちには「監獄部屋」(北海道では「タコ部屋」と呼ばれた)が待っていた。「タコ部屋」の辛さに逃亡する人夫が絶えず、捕まった人夫は『見せしめ』が待っており、そのリンチで死亡しても警察は黙認していた。労働運動が発展してくると「監獄部屋」の過酷な労働が問題として取り上げられた。それに伴い労役者募集取締規制ができたが第二次世界大戦後まで実質的な効力を持たなかった。太平洋戦争が始まると徴兵により日本人の人夫を確保が難しくなると、中国・朝鮮に労働力を求めた。かたちの上では募集に応じて日本へ来たことになっていたが、実際は強制連行だった。中国人・朝鮮人に対する労働条件は囚人労働よりも酷いものだったらしい。

三笠市にある空知集治監跡を訪れた時、何故かくしゃみが止まらなかった。その後、千人塚史跡公園へ向かう途中、小さな旋風に巻き込まれ、頭、目や耳に砂埃が入り大変だった。あまり風が吹いていなかったのに不思議だった。本書を読んで、北海道に住んでいても北海道の歴史についてはあまり知らないことを痛感した。

北見地方は、開発の過程で斃れたアイヌ、囚人、タコ、朝鮮人、中国人の遺骨が、重層をなしている。そして、これらの苦難にひとしいほどの苦闘の歴史を屯田兵と開拓移民がこの地に印している。
苦難の歴史は、これらの人々が相互に対立し、分裂したときに倍加している。和人がアイヌを、日本人が朝鮮人を、地雇が他雇(たこ)を、屯田兵が囚人を蔑視し差別することは、底辺で働く民衆の苦しみを加重し固定化してしまうことになる。
先覚者が、その身をもってのたたかいで教えたのは、そのことだった。徳弘はアイヌ差別の撤廃を、大井上、原、留岡、有馬らは囚人の人権擁護を、直寛と潜と助松、鶴蔵らはタコ飯場制度の解放を、みずから行動によって、後人に指針を垂れた。
瀬戸瀬の「山神」は率直に呼びかけてくる。
「人間が、人間を収奪することをやめよ。民衆の間に差別や蔑視があるかぎり、解放はありえない」