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「抵抗者たち」 池田浩士


本書は3度目の復刊で、それぞれの版ごとにあとがきがある。今回の版は後章が追加されている。最初の版から40年近く経っており、それぞれのあとがきがその当時の政治情勢を反映している。初版あとがきで、「本書は高校生や予備校生、若年労働者や大学生-まだ本というものを読む大学生がいればの話だが-に読んでもらいたい」と著者は述べている。なかなか手厳しい。3度目のあとがきを読むと今の政治情況がいちばん危うい感じがする。

ナチス治下における反ファシズムの抵抗運動は、敗北-死-を運命づけられた少数派の闘いである。それは砂漠に2~3滴の水をまくような行為だった。圧倒的多数の沈黙する人々の中で、それでも抵抗を試みる人は絶えなかった。しかしながら、結局ナチス・ドイツを倒したのはソ連軍であり連合国軍だった。それでは抵抗運動は全く無意味なものだったのだろうか。著者は次のように述べている。

失敗した試みは、たとえそれがあらかじめ失敗を運命づけられていたとしても、失敗ゆえに無に帰するわけではない。無と見えるもののなかには、多くの、ほとんど圧倒的な大きさをもったマイナスとともに、いくばくかの希望もまた孕まれている。黙殺と神話化の間で消え果てようとするこの希望を洗い出し、それを個人の英雄的行為のなかに埋めてしまわないことが、本書のテーマである。

ハンス・ファラダの小説『だれもが一人で死んでいく』のモデルとなったクヴァンゲル夫妻は、ヒトラーに反対する呼びかけを記したカードを作り、人が多い建物の階段に置いて歩いた。彼らは逮捕されるまでの2年間に276通のカードと9通の手紙を書いた。彼らのカードは見つけたものによって警察へ届けられた。そのうち18通が当局には届けられなかった。18通は単に届けられなかっただけなのか、誰にも見つけられなかっただけなのかはわからない。それらのカードが他のカードと同様に何の効果もなかったのは確かだった。オットー・クヴァンゲルはギロチンにより死刑が執行され、妻アンナは刑務所を直撃した空襲のため死んだ。

さまざまな信念や確信に基づく抵抗は、もちろん、恥辱にまみれた一時代の稀有な遺産として、伝えられ生かされねばならないだろう。しかし、そうしたいわばプラスの遺産を強調することが、人並みはずれた英雄的な闘士の像を生み出すことを通じ、疑念とためらいを覚えながらそれを行為に移す道を容易に見いだしえなかった多くの人々や、もっぱら抵抗者たちに対する迫害のコーラスに唱和することによってその時代を生きたもっと多くの人々の姿を覆い隠してしまうとすれば、ファシズムに抗する試みも、そしてファシズムの現実そのものも、われわれとは縁遠い世界の出来事になってしまうにちがいない。ファシズムに対する抵抗の実践にもまして重要なのは、その抵抗を生かし、継承することである。そして、実践された抵抗を継承することにもまして重要なのは、抵抗が何故に敗北し、あるいはそもそも不可能だったのかを問うことである。ここでもまた、実践そのものにもましてその総括が問題なのだ。