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「ボランティアとファシズム」 池田浩士


W杯や五輪のような大きなイベントには、ボランティアが必須となっており、それを前提に予算が編成されている。阪神淡路大震災でボランティ活動が日本において一般的になり、その後の災害時には様々な地域からボランティアが災害地へ駆けつけている。広辞苑によればボランティアとは「自ら進んで社会事業などに無償で参加する人」。「ボランティア」と「ファシズム」がどう結びつくかと思い本書を購入。

ボランティア活動の「無償」で行う自発的な労働と、第二次世界大戦下における日本の「勤労奉仕」やドイツの{労働奉仕」との類似性を本書は示している。戦時下の労働力不足を補うため朝鮮半島から日本へ連れてこられた人々も、かたちの上では自発的な労働行為とみなされた。また満州の開拓団も強制ではなく自発的な活動となっていた。

けれども、自発性にもとづくボランティア活動と、義務化され制度化された奉仕活動との区分、あるいは境界は、明確で固定的なものであるわけではない。むしろ逆に、境界は確定したものではなく流動的・移行的なのだ。奉仕活動の制度化・義務化は、自発的なボランティア活動の基盤あるいは土壌の上にしか、成就され得ないからである。為政者たちはそのことを熟知していた。国が「勤労奉仕」と呼ぶ活動も、もともと、各人の自発性もとづく社会的な奉仕活動を、重要かつ不可欠の前提にしていたのだった。

今では、企業や学習指導要領でもボランティア活動は奨励されており、ボランティア休暇を取得可能な会社もある。著者は日本でなされたボランティア活動の報酬総額を見積もり、東京都の最低賃金で換算すると2兆円を超えることを示している。

これは正当なことなのだろうか?-と言う疑問が浮かんでも当然ではないだろうか、と考える人がいるのではないでしょうか。支払われない二兆円近い金額は、どこへ行ったのでしょうか?自発的なボランティア活動で充実感を実感し、間違いなく社会貢献を果たしたボランティアには、それを問う責任はないのでしょうか?
悲しいことに、人間には自分が生きている瞬間を見ることはできません。瞬間には時間的な長さがないので、物理学的に考えても見ることができないわけですが、それは別としても、私たちにとって、自分がその真っ只中で生きているいまのこの現実を見ることは、たとえ不可能ではないにせよ、きわめて困難です。とりわけ、無我夢中で一生懸命に何かに打ち込んでいるときには、周囲の現実は目に入りません。しかも、自分は間違ったことをしていない、自分は正しい有意義な仕事をしているのだ、と無意識にであれ確信しながら何かに没頭するとき、私たちには現実が見えなくなります。

関東大震災における学生救護団のボランティア活動から生まれた「東京帝国大学セツルメント」は、震災後も社会改良活動を行った。「帝大セツルメント」は色々な人物を輩出したが、支那事変開始から半年後に解散させられた。戦後、セツルメント運動は復活するが1960年代後半に姿を消す。セツルメント運動は消滅したのにたいして、ボランティア活動はますます盛んになっている。