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「パリ五月革命私論」 西川長夫


三十年前近く前管理人は大学で、著者の西川長夫さんにフランス語を習っていたことがあった。その後、大学には行かなくなり、京都市内の図書館でひたすら本を読んでいた。西川先生についての記憶は高校時代の英語の先生に似ていると思ったことくらいしかいまはないけれども、著作はぼちぼち読んでいた。

本書は、著者が実際に見聞きしたことを中心としたパリ五月革命論である。新書としては異例の450頁を超えている。西川さんが1968年5月のパリにいて、写真を撮っていたというのは知らなかった。リアルタイムで「パリ五月革命」を知らない管理人には、第三章が一番面白く感じられた。現場にいたひとの記録が貴重であり興味深いのは、ジョゼフ・クーデルカの「プラハ侵攻」の写真と同様である。

著者は、「バリケードの夜」と呼ばれている5月10日から11日にかけてパリに居らず、ノルマンディーに滞在している。いまからみると何故パリに居なかったのかと思うが、その時著者はこれ以上事件の展開はないと判断し、地方の反応を見てみたいとノルマンディーへ出かけた。こういうところも私論の面白さだと思う。事件の只中にあって、後から全て正しいと思われる判断をするというのは難しいと思う。

第四章の「知識人の問題」の中で日本人として、森有正と加藤周一を取り上げている。回想の中にでてくる森有正の印象は、時期によって様々で不思議な感じがする。日本の知識人に「パリ五月革命」の学生たちが叫んだ切実な叫びはとどかなかったのではないかと著者は述べている。

最後に著者は次のように述べている。

「未だ嘗て生きられたことがなかった共産主義の一形態がここに出現したのだと、人びとは感じとることができたのだ」というブランショの証言を、私は幾分かはその場に身を置いたことのある者の一人として、承認したいと思う。それはマルクスがパリ・コミューンにかいま見た、国家の死滅後の未来社会像であり、アルチュセールが五月の高揚のなかで夢想した、社会主義という過酷な移行期の果てに予見される、「市場関係の不在」すなわち「階級搾取と国家支配の不在」によって条件づけられた未来社会のイメージでもあった。それはユートピアにすぎないという反論が直ちに寄せられるだろう。だが既成の秩序のなかで既成の概念を使って冷静に組み立てられた未来社会像と六八年五月のような祝祭的革命のなかに現出した未来社会像のどちらを信じるかと問われれば、私は躊躇なく後者を選びたいと思う。