KAZUHIKO KIKUCHI BLOG

「『自由』のすきま」 鷲田清一


本書は雑誌・新聞に発表されたコラムやエッセイが集録されている。「おとなの背中」「パラレルな知性」と同じようなエッセイ集で、これだけコラムを方々に書いていると内容の重複は致し方ないところ。森毅さんもあちらこちらに書いたコラムを一冊の本に纏めると金太郎アメみたくなるというようなことを書かれていた。発表場所がそれぞれ違っていて、似たようなテーマで頼まれると内容がにてくるもので、全く違ったらそれはそれで著者として一貫性がなくなり問題だ。コラムを書くのは難しいので、執筆者が何人かに集中してしまう傾向がある。「天声人語」などの新聞に毎日掲載されるコラムを仕事で書くのは大変だろうと思う。

「これはこれ」からの引用。抽象絵画で、これは何ですかと尋ねられたときある画家は「これはこれ」ですと答える。

あたりまえのことを、ひとはあらためて問う。問いがそこで終わってしまうところから、さらに問いを発するところに<哲学>がある。たとえば在るものは在るとしか言えないのに、それでも「なぜあるものが在って、無いのではないか」と問う。これ、<哲学>がはじまって以来、ずっと問われてきたことである。

「頑迷な感覚」からの引用。これは何回も出てきた話題。

ずっと右肩上がりの景色のなかで育ってきた世代は、難題に直面しても次の世代が何とかするだろうと思い込む。国の借金が天井知らずに増えつづけてもそれを異様だとおもわない。それを放置できるのは、いまじぶんたちなりにフル活動しておけば、いずれ次の世代がどうにかするだろうという感覚があるからだ。

「じぶんが凶器であること」からの引用。管理人も自転車に衝突された時、自転車に乗っていたひとは何も言わず去って行った。

ボタンを押すというたった一つの操作で、おびただしい人びとが爆撃される。そんの惨劇のありようはよほど想像力をはたらかせないと見えてこない。ネットでの小さなつぶやきが一気に膨張し、その暴力が一つのいのちを抹消し、葬り去ってしまうこともある。不用意に発せられた政治家の一言が、地べたで長年にわたり辛抱に辛抱を重ね積み上げてきた努力を一瞬で壊してしまうことも・・・。ひとはみずからの存在が、みずからは制御不能な力を宿している事実、そしてみずからのイマジネーションをはるかに超える凶器にもなりうるという事実に、もっと怖れをなすべきだ。

「明るいニヒリズム?」からの引用。なぜこれほどゆるキャラが増えたのか。せんとくんは最初酷い評価だった気がするが。

わたしたちは大なり小なり、じぶんのまわりにじぶんの気に入ったものを並べておきたい、飾っておきたいものである。子どもから年配のひとまで、お気に入りのものを周囲に配することで、その空間に安心して身を漂わせていたいと、無意識におもう。肌あいの合わないもの、つまりは他なるもの、異質なものをとことん排除することで、じぶんに「優しい」ものしか存在しない密室を作り上げるかのように。

「テロとBSE」からの引用。二つの事件とは同時多発テロ事件と狂牛病のこと。

言葉の生地からふと滲みだしてくるあの奇妙な浮遊感。それは、事実としても問題としても事件を捉えきれないがゆえの混乱や戸惑いからくるのか、それとも、非対称な関係のどちらにもじぶんたちは与していないという視力喪失からくるのか。どんな惨劇、どんな困窮も、ついに<<悲劇>>とはなりえないという、この社会を侵蝕している言説と情報のある空疎なスポンジ構造を、二つの事件は不意に浮き彫りにしたようだ。

「病気になって楽になるというビョーキ」からの引用。「精神分裂症」という病名が「統合失調症」になったときの話。

ケータイなどの遠隔コミュニケーションやコンビニの存在(そのレジの神経はその機械のなかで完結しているのではなく中央の情報システムに直結されている)がそれを象徴しているように、伝達や流通のシステムはすでに場所や地域というものから遊離している。その遊離の構造そのものをみずから身体化してゆかざるをえないときに、身体のそういう「透明」化とバランスをとるかたちで、さまざまな身体変工やときには自傷といった、身体に重しをかける行為が生じているというわけだろう。

「”キャラ”で成り立つ寂しい関係」からの引用。管理人は「真剣十代しゃべり場」は見たことが無かった。若い人は大変だなあと妙に感心してしまった。

他人となにかを共有する場のなかではとても親密で濃やかな気配りや気遣いをするのに、その場の外にいる人はその存在すら意識しない・・・。たとえば車中で携帯電話をする人に同乗者がしばしば強いいらだちを覚えるのは、うるさいというより、プライヴェイトな会話をむりやり聞かされるというより、じぶんがその人に他者としてすら認められていないという侮辱を感じてしまうからだろう。また、あるCDが六百万枚売れていても他方にその曲も歌手の名も知らない人がそれ以上にいるという事実も、一つのコミュニケーション圏と別のコミュニケーション圏がまったく無関係に存在しているという、そういうコミュニケーション圏相互のディスコミュニケーションを表している。

「弱さとためらいとゆかしさと」からの引用。「リベラル」や「リバティ」の意味については繰り返し著者は述べている。

「リベラル」という英語の、辞書に掲げられる最初の意味が「気前のよい、物惜しみしない」であることは存外知られていない。リベラルなスポンサーとは気前のよい後援者のことであり、お金にリベラルであるとは金離れがよいということである。わたしたちは<自由>ということで、何かが自分の思いどおりになること、意のままにできることとおもいがちであるが、そのように自分を囲う、自分の意志を拡張してゆくのではなく、逆に自分をほどき、みずからのまなざしをまずは他者に贈りとどけるような自由、他者を押しのけるのではなく遠くから見つめるともなく見つめる自由というものがあるのではないか。鷹揚さ、気前のよさという<自由>である。それはほとんど、寛容(generosity)にひとしい。