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「小林一茶」 金子兜太


本書は句による小林一茶の評伝。はじめに句と訳があり、句の評釈が続く。評伝の部分は対話形式のものが多い。年代順に取り上げた句は九十句で、その他に評伝中に関連する句が相当数引用されている。「荒凡夫 一茶」以来の金子兜太さんの著作を読む。実際の出版は本書のほうが先。

一茶は世の中を「天地大戯場」と見ていた。世の中への志は見当たらず、イソギンチャクのように周囲に触手をひらいて生きていた。好奇心にあふれ、目にした物は何でも書きとめ、危ういと思えば身を引く。一茶は世渡り上手として江戸で生き、晩年故郷柏原に戻る。義弟との間で財産分与を巡る確執が生じ、その問題解決に行動力をみせた。帰郷後50歳過ぎてから3度結婚し子供をもうける。業俳としても近郷に門人を増やす努力を怠らなかった。一茶句風の特徴を著者は、繊細で粘り強い庶民的情念の世界と述べている。

本書で「春風や鼠のなめる角田川」という句が紹介されている。管理人には何でもないように思えるこの句に対して、著者は次のように述べている。

江戸のときをおもっての作だろうが、暗い句だ。隅田川の流れは暗流で、鼠に怨念を感じる。舐める音が鋭いな。いや、すごい感覚だとおもう。能の「隅田川」が根にあるのかな。もし、そうとすると、これから一茶は次ぎ次ぎに子を得ては失うのだが、その予感かな・・・・舐める音、その音が暗い川面にひろがる感じ。妙な、いやーな、生ぐさい感じ。それが忘れられないな。

この句を詠んで、怨念をもって鼠が隅田川の水を舐めるというイメージを思い浮かべるほうが余程すごい感覚のように思われる。管理人が面白いと思った句は、「さるも来よ桃太郎来よ艸の餅」「心からしなのの雪に降られけり」「六十年踊る夜もなく過しけり」「花の影寝まじ未来が恐ろしき」といったところ。

著者が小林一茶の生きていくための苦労の有り体を見極めて、一茶の俳諧を受け取って行こうとしたのは1970年代半ば頃だった。それまでは発句の大衆版を書きひろげた俳諧師という一般的な評価を土台としていた。一茶の生き様を見極めもせずに何となく親しんできたのは、著者が秩父生まれで一茶の奥信濃と地つづきのおもいがあったためだと著者は述べている。

その一茶は何者なのか。どんな生きざまを呈していたのか。小生の関心はそこに集中した。高度経済成長のなか、自ずと物に傾いて、<こころ>薄らぎ、現象に傾いてゆく世相。それに向って、こころある人たちはさまざまに抵抗していた。小生も一茶の有り態を見届けて、その俳句を、そしてそれに引かれている自分を見究めようとしはじめた。
一茶を<存在者>として捕らえて、<社会>に身を置いて生きる、その生の有り態を見届ける。その作業を「句による評伝」-作品とそれに関わるさまざまから見抜いてゆく。それをまず実行したのが、この本だったのである。五十歳で郷里の奥信濃柏原に帰るまでの、ほぼ十年間の「漂鳥一茶」の有り態。-屈折した内面、対人関係。そして帰郷後十五年間の「俳諧寺」を目指しての苦労さまざま。六十歳の正月、「荒凡夫」で生きたいと言い切る心底。
小生は、「定住と漂泊」を身にしみて承知した。そして「漂泊」の態を一茶に承知し、そのとき一茶が頼りにした「社会」を、自ら捨てようとした山頭火の「放浪」、捨てざるを得ないところにまで追い込まれてゆく井月の「放浪」を理解するようになる。